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cogito ......


 東明 しののめ の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
はたなびく、、、、、小旗の如くかんかな

    あるはまた別れの言葉の、こだまし、雲に入り、野末にひびき
    海のの風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……

2026-06-20

明石海人 : 歌集「白描


歌集「白描」はくびょうより、その前文と巻頭の一首。および作者紹介。

 ー深海に生きる魚族のやうに、自らが燃えなければ何処にも光はない (前文)



(前文)

 癩は天刑である。
 加はるしもとの一つ一つに、嗚咽し慟哭しあるひは呻吟しながら、私は苦患の闇をかき捜つて一縷の光を渇き求めた。ーー深海に生きる魚族のやうに、自らが燃えなければ何処にも光はないーーさう感じ得たのは病がすでに膏*1に入ってからであった。歳三十を超えて、短歌を学び、あらためて己れを見、人を見、山川草木を見るに及んで、己が棲む大地の如何に美しく、また厳しいかを身をもつて感じ、積年の苦渋をその一首一首に放射して時には流涕し時には 汴舞べんぶ しながら、肉身に生きる己れを祝福した。人の世を脱れて人の世を知り、骨肉と離れて愛を信じ、明を失つては内にひらく青山白雲をも見た。
 癲はまた天啓でもあつた。


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(巻頭の一首)

診  断 ー 診断の日
病名を癩と聞きつつ暫しは己が上とも覚えず


  医師の眼の おだしきをふ 窓の空
    消え光りつつ 花の散り交ふ

明石海人


注)白描=はくびょう 東洋画で,墨1色を用い,筆線を主体として描く技法. また,その絵(大辞泉)
注)癩=癩病,ハンセン(氏)病(俗解)
注)天刑=天がくだす刑罰. 天の制裁. 天罰(大辞泉)
注)笞=しもと 昔,罪人を打つのに用いたむち. 比喩的に,人を責める厳しい戒め(大辞泉)
注)膏*1=本来であれば膏肓(こうこう)と書く語. 病が進み視力を失った経緯からあえて盲の字に代えたか、あるいは単なる誤植か不明(俗解). その意は, からだの奥深いところ. ここに病気が入ると治らないという(大辞泉)
注)抃舞=べんぶ〔名〕(スル) 喜びのあまり,手を打って踊ること(大辞泉)
注)天啓=天の啓示。天の導き。神の教え(大辞泉)
注)趁ふ=おう,したがう,おもむく(コトバンク)


出典:明石海人歌集 2012 岩波書店
参照:大辞泉 1995 小学館 (大辞泉)


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以下、Wikipedia より部分引用:

明石 海人 (あかし かいじん、1901年(明治34年)7月5日 - 1939年(昭和14年)6月9日) は、昭和初期に活動した日本の歌人である。本名は野田勝太郎。「もし長寿を保ったなら、昭和時代を代表する大歌人となったろう」とは大岡信の言である。

略歴
1901年 (明治34年) 7月5日、沼津市に三男として生まれた。2人の兄と1人の妹がいる。もう1人弟がいたが出生後間もなく亡くなっている。生家は経済的に恵まれており、沼津商業学校を終えると静岡師範学校へ入り教職の道に進み、1920年 (大正9年) に師範学校を卒業後、小学校教員となった。

1924年、同僚の麻子と結婚、翌1925年 (大正14年) には長女の瑞穂、続いて次女の和子をもうけた。絵画、クラシック音楽を愛好し、赤いオートバイに乗ったり、テニスを楽しむ青年だったという。

生活は順調だったが、25歳の年の1926年 (大正15年) ハンセン病を発症したため、教職を辞さざるを得なくなった。当初は自宅療養に努めたが、その後実家や長兄・敬太郎の経済的支援のもと、考えられる限りの治療を求めて、紀州粉河、私立明石楽生病院 (兵庫県) などで治療に励んだ。

この時期、同じ病院に入院していた知名人の夫人と恋愛関係になり、一時期病院を出て加古川付近で同棲していたことがあったが、家人の反対にあい1年後には同棲を解消し病院に戻った。病院に戻った時にはハンセン病の症状は悪化していて、頭髪はすっかりなくなり、顔面も張れあがっていたという。

同病院の閉鎖により、1932年 (昭和7年) 11月に開園間もなかった国立らい療養所長島愛生園 (岡山県) に入所した。なお、前年の1931年 (昭和6年) には癩予防法 が成立しておりハンセン病患者の強制隔離政策が始まっている。

海人は入所後、1932年 (昭和7年) から翌1933年 (昭和8年) 末にかけて精神錯乱を起こし、十坪住宅の一室で過ごした。

回復後の1933年12月にはキリスト教に入信、洗礼を受けた。更に、1934年 (昭和9年) 3月には、「明石大三」と改名した。 明石は入所後から、俳句、短歌、詩、エッセイ、小説などの創作に励んだが、重点は次第に短歌へと移った。
1935年 (昭和10年)、ハンセン病が進行し失明、その後1936年 (昭和11年) 11月には気管切開手術を受け、声を失った。以後は、指で文字を書いて指示して他人に代筆してもらいながらの創作活動を続けた。

1937年 (昭和12年) に改造社が一般募集して作られた『新万葉集』全11巻に応募し、11首という異例の大量入選によって注目を集めた。このことがきっかけで、改造社から個人歌集の出版をする依頼を受け、1937年一杯をかけて出版の準備を進め、大みそかにようやく完成稿を改造社に送った。

死の直前に歌集『白描』を改造社から刊行したが、1939年 (昭和14年) 6月9日、結核のために亡くなった。

:引用終り



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