「創世記」第四章 第3~5節
ここで、"神" は早々とその不完全性あるいはその邪悪な本質を露呈します。
ここで、"神" は早々とその不完全性あるいはその邪悪な本質を露呈します。
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4:3 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。
4:4
アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
これは "差別" と "いじめ" を神自らが創始したことの証。
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"神に顧みられなかった" とはどういうことか?
もし、私たちの心に信仰の欠片でもあるとするなら……
まごうかたなく、それが絶望以外の何物でもないことが判ります。
キルケゴールのいう「死に至る病」そのものです。
その後において、彼が「顔を上げなかった」とか「〜を殺した」とか論うのは本末転倒以外の何物でもないでしょう。
あなたの信仰が深ければ深いほど "神に顧みられなかった" ら全ては終わりであるはずです。違いますか?
これに対して伝統的キリスト教諸派はいう、「カインの供物には心がこもっていなかった」あるいは「カインの供物が粗末な物であった」などと。
創世記のどの行を探してもそのようなことは一言も書かれていません。
・神の言葉に、神の語っていない言葉を付け加えてはならない。
これは啓示宗教の本質にかかわり、これを否定するとキリスト教の存立自体を危うくしてしまいます。
ましてや、聖書無謬を主張する福音派の方々においてそのようなことはあり得ないはずですね。
また、"神"は信ずる者の貢ぎ物の良し悪しでその者への対応を差別をするのか、という次元の低い疑義をも産んでしまいます。
つまりそれらは古典的かつ通俗的な護教的詭弁であって、この言葉を吐く者は自らの信仰を卑しめています。
このカインへの理不尽な対応は、創世記全体を貫く"神"の神らしからぬ言動の端緒にすぎません。
それら看過できぬ事柄のいくつかは次稿以降に随時記します。
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Caïn par Henri Vidal, 1896, jardins des Tuileries (Paris) -wikipedia
アベルを殺害した後、悲嘆に暮れるカインの全身彫像の部分
アベルを殺害した後、悲嘆に暮れるカインの全身彫像の部分
改訂:2022.08.10 第二段落追記, 欠落していたタイトル加筆
2023.08.10 タイトルにあった(改訂)の文字を削除
2023.08.10 タイトルにあった(改訂)の文字を削除
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