キリスト教で旧約聖書と呼ばれるユダヤ教聖書のうち、創世記に始まる "モーセ五書" とそれに続く "歴史書" 十数篇の内容は、独自の究極的な解釈を確立するまで全て凍結することにします。ここで凍結とは無視するのではなく、正統キリスト教諸派の解釈を意に介さないことを指します。
一方で独自の解釈を進める上で折に触れそれらを引くことはむしろ増えると思われます。
一方で独自の解釈を進める上で折に触れそれらを引くことはむしろ増えると思われます。
旧約聖書中のその他の文書は玉石混交。吐き気を催すような掃き溜めであったりする一方、そこに鶴がいたりもします。
そして、ここに一羽の鶴あり…… イザヤ書 第11章 6節~9節
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11:6
おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、
子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、
小さいわらべに導かれ、
11:7
雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、
ししは牛のようにわらを食い、
11:8
乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
11:9
彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。
主を知る知識が地に満ちるからである。
- イザヤ 11: 6~9
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このイザヤの預言は、イザヤ個人の夢物語や絵空事などではありません。
なぜなら、エデンの園で神が次のように言われています。
「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」
- 創世記 1: 29~30
ここで明らかなことは、人にも人以外の動物にも、命ある者全てには食べ物として植物のみが与えられていた、ということです。
つまり全ての動物は菜食で、今でいえば皆ヴィーガンですね。
エデンの園は、即ち楽園は、そのように造られていたのです。
動物の種の間で弱いものが強いものに噛まれ引き裂かれ、生きながらにして食べられてしまう、そういう捕食関係の生態系の均衡で成り立っている今の世界は地獄そのものです。
しかし、神はどのような命をもそのようには造られなかった、少なくとも当初に於いては。
だが、事実は小説より奇なり。
創世記の "神" は人がまだエデンの園にいた頃、即ち全ての動物が植物のみを食べていた頃、すでに血を好んだ。
・"神" は人とその妻とのために "皮" の着物を造って、彼らに着せる (3:21より抜粋)
・アベルは羊を飼い、初子と肥えたものを "生贄" として捧げる (4:3~5より抜粋)
・生贄ではなく地の産物を捧げたカインは無視される (4:3~5より抜粋)
そしてついにノアの洪水の後、人が動物の肉を食べて良いとされ、ここに、弱肉強食の血で血を洗う修羅場の幕が "神" によって切って落とされる。
生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。
- 創世記 9: 1~3
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しかし、イザヤが高らかに謳う…
「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。
さきの事はおぼえられることなく、
心に思い起すことはない」
(中略)さきの事はおぼえられることなく、
心に思い起すことはない」
「彼らの勤労はむだでなく、
その生むところの子らは災にかからない。
彼らは主に祝福された者のすえであって、
その子らも彼らと共におるからである。
彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、
彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。
おおかみと小羊とは共に食らい、
ししは牛のようにわらを食らい、
へびはちりを食物とする。
彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、
やぶることはない」と主は言われる。
その生むところの子らは災にかからない。
彼らは主に祝福された者のすえであって、
その子らも彼らと共におるからである。
彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、
彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。
おおかみと小羊とは共に食らい、
ししは牛のようにわらを食らい、
へびはちりを食物とする。
彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、
やぶることはない」と主は言われる。
- イザヤ 65:17, 23~25
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最上部に掲げたイザヤの預言は「主を知る知識が地に満ちるから」との理由を掲げて、弱肉強食による動物同士の捕食の世は終わり原初の楽園が復活する様を記しています。
「主を知る知識」、それはイエス・キリスト。
イエスの公生涯すなわちイエスの教えを指す。
その血ではない。
その復活でもない。
イエスの公生涯すなわちイエスの教えを指す。
その血ではない。
その復活でもない。
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
とがある者と共に数えられたからである。
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
とがある者と共に数えられたからである。
- イザヤ 53:11~12 部分
マルコが記します。
「イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、『まことに、この人は神の子であった』」(15:39)
このようにイエスの公生涯を知ることによって、復活を待つことなく、そのような条件なしに、信ずるのです。
一方で、弟子たちの誰もが信じませんでした、復活のイエスに会うまで。
このようにイエスの公生涯を知ることによって、復活を待つことなく、そのような条件なしに、信ずるのです。
一方で、弟子たちの誰もが信じませんでした、復活のイエスに会うまで。
復活したイエスを見なければ信じない、復活したと証されなければ信じない、復活しなかったのなら信じない…… それらはその個人が選び取って自らを納得させる方便に過ぎない。
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それでは、おまえはいったい何を信じているのか? と問われるなら……
とても難しい問いですが、何も答えないわけにはいきませんね。
・イエスの数多くの教えに共感します
・イエスが述べる形而上学的な示唆に共感します
・具体的にはイエスの次の言葉を信じます
1.「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」 (ルカ 23:43)
2.「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」 (ルカ 17:21)
3.「栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ」 (マタイ 6:29-31)
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Caïn par Henri Vidal, 1896, jardins des Tuileries (Paris) -wikipedia
アンリ・ヴィダル, 1896 : アベルを殺害した後悲嘆に暮れるカイン - 全身彫像の部分
アンリ・ヴィダル, 1896 : アベルを殺害した後悲嘆に暮れるカイン - 全身彫像の部分
改訂:2022.09.15 リードに語句追記; 独自の(解釈), (凍結とは)無視するのではなく、
カインの末裔さん
返信削除創世記はすべての始まり、この世と人間、そして罪や恥の始まりで黙示録は、すべての完成を示しますので永遠から永遠への書が聖書です。ですから奥が深いのです。
主なる神が確かに初めて動物を殺し血を流されて、アダムとエバに皮の衣を作って着せられたのは、エデンの園の外の厳しい世界に送り出す為の準備で愛の表現です。そしてやがてサタンである蛇の頭を砕くという希望を与えられました。アダムとエバの罪の後に希望が、そして愛が示されたのです。
カインさん 神がカインの捧げ物に目を向けなかったのは、それが動物の肉だったからではなく、真に心のこもったささげ物ではなくて、喜びの顔を神に向けられず、顔を伏せる捧げ物であったからなのです。決して血を好むためでは無いのです。確かに聖書には動物の生贄や血潮が記されていて、今の日本人の感覚に合わないかもしれませんが、血の中に命があるのは間違いありませんし、聖書の時代背景も考慮すべきです。
イザヤ書
65章で描かれている草食の世界は、おっしゃる通り終末の後に来る新しい世界の様子で、エデンの園の回復という神の救いの完成の姿です。そしてこの将来の世界に向かう前にイザヤ53章 イエス・キリストの十字架の姿があるのです。
カインの末裔さん
この世にはあらゆる患難があります、我々はすぐに患難と言えば天災、コロナ、病気、財政危機、家庭不和など外の世界から受ける患難を思い浮かべます。しかし内側から来る患難もあるのです。 人から蔑まれ、憎まれる事は確かに感なんですが、その人たちを憎み返すこと、怒ることや妬み、争いも実はもっと激しい患難なのです。
それに対し主イエスは憎む相手に対し、父なる神に赦してやって下さいと祈りました。主イエスの内側には憎み返す毒素は無く、その代わりに愛を持って憎む相手を赦しました。怒り、妬みを消し去った主イエスは自己に勝ち、そして十字架で負けて勝利を得たのです。
カインの末裔さんも主イエスのみことばを受け入れられていることに感謝しております。
主に在りて
森 宗孝様
削除独断と偏見をベースとした有害無益な記事が多いブログであるにもかかわらず、ご専門の立場から詳しくお教え頂きましてありがとうございます。
創世記は他の文書と違いキリスト教の世界観の基礎となり、ひいては "救い" の中身をも示唆するものとして細かな点もおろそかにできず、今までさまざまなこだわりを持って読んできました。最近はそれも極まり、突破口を求めて外典を含む他の文書に目を向け始めたところ、ふとしたことから懐かしいイザヤの予言に立ち返り、この記事にまとめました。
ご教示頂きました点につきましては今後さらに学び理解を深めていきたく思います。
拙い記事ゆえ、コメントを頂けることは、お教え頂く場合はもちろん、お叱り頂く場合であっても、何よりの励みになります。
これからも忌憚のないご意見を賜りますよう切にお願い致します。
ありがとうございます。
カインの末裔/tsuchi.no.chiri