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Cogito


東明の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
はたなびく小旗の如く涕かんかな

或はまた別れの言葉の, こだまし, 雲に入り, 野末にひびき
海の上の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……

改訂情報:


- 二人乗り自転車の歌 重要: たくさん分かち合う→運命を共有する (韻に託けて文法無視で意訳した前訳を改訂)

- ホセ・カレーラス「光さす窓辺」 対訳付き原語歌詞追記

2018-12-01

alibi-12 : まだ咲く卯の花 "夏" の花


アリバイ その12。
十二月に入ってもなお、イチョウの黄葉をバックに生きいきと咲く六輪の卯の花を眼の当たりにして、その反歳時記的で反季語的な情景にいたく心を動かされ、そこで一句……



   題詞:季語なるものがいかに陳腐であるか、その例を示すことを目的として土ちりが生まれて初めて作りし句なり


     黄葉もみじばに 映ゆる卯の花 師走しはす入り

土のちり


注)使用季語:
  黄葉(紅葉) = 秋
  卯の花 = 夏
  師走 = 冬

∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥


"alibi - 12 : まだ咲く卯の花 "夏" の花"

∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥

今は昔の二十歳の頃、とあるプロのカメラマンが、私は "花鳥風月" をモットーとしている、という趣旨の記述をしているのを読んだことがあって、随分と違和感を覚えました。
商売として売れる写真を撮る秘訣を述べたのであれば、別にどうということもないのですが、自分の "作品" 云々という文脈であっただけに、何か引っかかるものを感じました。

以来、こだわりができました。古典を鑑賞する手助けとしてならいざ知らず、現在進行形で何らかの "作品" を創ろうとするなら花鳥風月はないだろうと、さらに発展して、俳句の "季語" なるものにも猛烈な反感を抱くようになりました。

私の父は "歳時記" に親しみ、母は俳句をたしなんでいました。それはそれで結構なこと、人それぞれ。それが誰であれ、そのことの良し悪しなど考えたこともありません。
しかし、その息子たる私自身は、季語のごとき固定観念の押し付けは到底受け入れられなくなっていました。

季語とは、イデオロギー以外の何物でもなく、イデオロギーの行き着く先は、死。
それは、人の感性を枠に閉じ込め、窒息させてしまう。
俳句を楽しむ人が、私の母もそうでしたが、窒息しないとしたら、それはおそらく、いい意味で、俳句作りをゲームのように楽しんでいるのではないか思います…… クロスワードパズルか何かのように。

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冒頭の句は、想像力をたくましくしてパズルのようにでっち上げた作品ではありません。
アリバイが証すごとく、現前する情景が、その奥深い現実が、即ち自然が見せてくれる生命のドラマに、至高の美の世界に、一歩でも踏み込もうと試みたものです。
この句を、相反する季語が混在してデタラメだから俳句ではないという方、仮に季語を俳句成立の唯一の要件とすれば事実そうに違いないのですが、あなたの美に向かう感覚は窒息しています。

しかし、季語の良し悪しを問わないとしても、これはいい句ではない、失敗作、それはその通り。これはアンチテーゼを意図して作られた、パロディです。

蛇足:失敗作である理由は、断じて "季語" にあるのではありません。失敗である理由は、意図した "至高の美の世界" に全く踏み込めていないから。


注)一つの句に、季語が二つある句は「季重ね」、その二つが異なる季節のものであると「季違い」の句として、それぞれ認められているようです。
しかし、一つの句に三つの季節それぞれの季語がある句について、あるいは、そういう句を詠みたくなる客観的な状況について述べているサイトは見つかりませんでした。


改訂:2018.12.01 誤記訂正 現前たる→現前する 他末梢表現補足



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