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Cogito


東明の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
はたなびく小旗の如く涕かんかな

或はまた別れの言葉の、こだまし、雲に入り、野末にひびき
海の上の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……

2016-12-17

田子の浦ゆ(田児の浦ゆ)

 

題詞:山部宿禰赤人やまのべのすくねあかひと不尽山ふじさんのぞみし歌一首 短歌をあはせたり
   反歌

 
 
 
田子たごの浦ゆ うちいでて見れば ましろにそ
富士の高嶺に 雪は降りける

山部赤人やまのべのあかひと :萬葉集 318



注)…ゆ = …を通って …経由して(俗解)


出典:新日本古典文学大系 萬葉集1 2000 岩波書店 (大系)
参照:新編日本古典文学全集 萬葉集1 1999 小学館
岩波 古語辞典 補訂版 1990 岩波書店(古語)
小学館 全文全訳古語辞典 2004 小学館(全文)
学研 全訳古語辞典 改訂第二版 2014 学研教育出版(全訳)


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田子の浦に うち出でてみれば 白妙の
富士の高嶺に 雪は降りつつ

山部赤人:小倉百人一首


子供のころに慣れ親しんだ、実に懐かしい歌の一つです。

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しかし、万葉集の歌に比べて、ところどころ違う… いや、これは大違い。
違いすぎる。

「田子の浦ゆ」の "ゆ"(~を経由):
これは古代の格助詞で、中世には既に使われなくなっていたとのこと。
同時代の人々に通じないのであれば、それをほかの言葉に代えたのはしかたがないとしても、しかし、それを "に"(~の方に)にしてしまったのは、どうしても解せない。
英語でいえば "from" を "to" に代えてしまったようなもの。意味するところが逆だ。

「眞白にそ」の "そ"(強い断定:~なのだ):
これを通俗的な枕詞「白妙の」に言い換えたのは、元歌をただ低からしめる暴挙。
"眞白にそ" には、この歌の、云わば述語のような重みが置かれている。
それを省いて、富士山を修飾するだけの軟弱な飾りの言葉に代えてしまった。容認できない。

「雪は降りける」の "ける" (過去の助動詞):
この語は古代から近代まで使われていて、鎌倉時代にこれを言い換える必要性は全くなかったはず。
言い換えた言葉が "つつ"(継続:~し続けて)。"ける"(過去) とは意味が全く異なる。


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私は幼少期を、沼津の片浜という、田子の浦の続きの海岸近くで過ごしたので、あのあたりから富士山がどのように見えるか、子供の目の理解力ではあったが、よく覚えている。
田子の浦や片浜あたりで、富士山に雪が降りつつあるようすが、目で見て判るということは全くあり得ない。
寒い日に山が雲で覆われていれば、山の上は雪が降っているかも… と思うことはあったが、その場合、山は真白にも白妙にも見えない、あるいは、全く見えない。

「田子の浦に出てみたら、白妙の富士の高嶺に、雪が降り続いている」

 ・・・ 講釈師、見てきたような嘘をいい。

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東海道を西に向うと、田子の浦を過ぎるところで、富士川の大河に出る。
視界が開け、河口近くの広大な河川敷からは、富士山がその頂から裾野まで、何一つ遮るものなく見渡せる。
富士山に雪が降り、晴れあがると、本当に眩いばかりに白く輝いて、それは美しい。

「田子の浦から(視界の開けるところに)出ると、真白だ、富士の高嶺に、雪が降ったのだ」



改訂:2016.12.18 「眞白にそ」説明の項に2行加筆
2019.01.27 "田児の浦" を "田子の浦" に改め 漢字及びルビを出典と整合 他末梢表現変更加筆 レイアウト更新



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