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cogito ......


 東明 しののめ の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
はたなびく、、、、、小旗の如くかんかな

    あるはまた別れの言葉の、こだまし、雲に入り、野末にひびき
    海のの風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……

    中原中也「老いたる者をして」- 詩集「在りし日の歌」より

2026-03-31

越後獅子の唄3: "みなしご" とは?


 わたしゃ 孤児 みなしご 街道ぐらし

 ながれながれの 越後獅子🎶

はて… "みなしご" とは?



心地よい歌声を聴きながら… あれこれと考えさせられるところがありました。

みなしご… ?
親のいない子のことをそう呼ぶことがあるらしい… その程度に知ってはいるが…
しかし、なぜその四文字なのか?
なぜ "孤児" の漢字二文字にわざわざルビを振ってまでそう読ませようとするのか?

検証を始めてみると「みなしご」の語がすでに平安時代の辞書に載っていることが解ります。
現代の古語辞典、岩波古語辞典〔補訂版〕によるその語義は次:

みなしご【孤・孤子】《「身無し子」の意》身寄りのない子。孤児(こじ)。死に別れたり捨てられたりして親のない子。こじ。「貧しく飢えたる者、ーー、病人らの形になりて」〈三宝絵下〉。「孤、ミナシゴ」〈名義抄〉

*〈〉で括って記されている二つの出典〈三宝絵下〉と〈名義抄〉はそれぞれ平安時代前期と後期に編纂された辞書。

しかし、語義で "みなしご" を《「身無し子」の意》とするのは、当て字の可能性の一つを示しているに過ぎずその意味するところを解いていない。またそれを "身寄りのない子" と解するのはいかにも早計。なぜならまったく身寄りがなければ路頭に迷い物乞いや窃盗により生き延びるほかないと思われるが、"みなしご" の語がそこまでの極限的な境遇にある子供を指しているとは考えにくい。

事実、大戦後に数多くの戦災孤児たちが身寄りもなく文字通り路頭に迷った。そこで食料や衣類などを盗んで非合法に生き延びる他に術のなかった子供たちは "浮浪児" と呼ばれた。彼/彼女たちはまったく "身寄り" がなく、ただそのことのために路頭に迷っていた紛れもない "身寄りのない子" であったにもかかわらず "みなしご" と呼ばれた記録は見つからない。
このことは、みなしご=身寄りのない子 ではないことを示唆する。

  みなし子の たぐひ多かる 世なれども
    ただ我のみと おぼしられて - 慈円

注)思しられて=思われて…

慈円は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧、歌人。父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀。
幼くして両親を無くし孤児となるが、その出自ゆえ "身寄り" に困ることは全くなかったに違いない。そんな慈円がこの歌で、みなし子とは「ただ我のみ」と思うほどの悲しさを歌う。父母がなくても身寄りにはまったく困っていない慈円がそう歌うのであるから、彼は、身寄りはあっても親がいないが故の悲哀あるいは辛苦を味わう自分を "みなしご" としている。
すなわち平安時代にあってもまた、"みなしご" が "身寄りのない子" の意ではなかったことが解る。

では、"みなしご" の意味するところはなにか?
初めに明らかにしておきたいのは、辞典が "身無し子" という当て字を示すときの漢字 "身" の意味。
まず思いつくのは「身の程知らず…」という言葉。
この語は直接的に "当人の能力の限界" を指す一方、当人の社会的立場やその影響力などを指すことも多い。それにはまた、当人の出自を証する人別帳的な意味付けもありうる。
そこから、身寄り、身の上、身上、身分、などの言葉が派生する。
さて、…
………
………
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しかし、越後獅子の唄を繰り返し聴きながら、歌われている "みなしご" の、恐らくは薄幸の身の上やその置かれた境遇にあれこれと思いを巡らすうち、行き詰りの感のあった "みなしご" の語の謎は自然に解けた。

"みなしご" それは "見做し子"。

これならルビを振らなくても読める、無理な解釈も強引な決めつけもない。一目でその意味が判る。
そう、それは、実の子ではないが自分の子であると "見做し" て育てている子供のことを指すに違いない。
先に触れた慈円もまたいずれかの親族の "見做し子" として養育されていたと想定する場合も、そこに用語上の矛盾は生じない。

親代わりとなって育ててくれる保護者が定まれば「孤児」「遺児」「捨て子」の身は過去のものとなる。そのこと自体は良い。

しかし "見做し子" と解釈すると、それは、誰かを実の子と見做すことによって成り立つ関係性そのものが前面に立ち、そこで見做された子の "子としての実態" は窺い知れず、むしろそれが隠されているように思える。
子としての実態とは、養子なら "養われている子"、里子なら "里(地域社会)の誰かの子"、もらい子なら "譲り受けられた子" など。

見做し子という場合、そこに "見做す" 側の主体としての親ではない "誰か" の存在とその主張が強く意識される言葉である点において「養子」「里子」「もらい子」等々の語と対立する。すなわちそれら他の語の多くが、実子でないことを秘匿あるいは内々に留め置きたいとする関係性にある点において "見做し子" は真逆。
その普通とは180度違う言葉「見做し子」を好んで用いるのであれば、そこに何らかの意図があるように思える。つまり、実子と見做すことによって生まれる見做し親の権利の主張がかいま見え、それは人身売買に関わる者にとって大変都合のいい言葉であったに違いない。

 - 続く -

Link:「越後獅子の唄4: "見做し子" と人身売買



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