若い頃、半世紀ほども前に読んだエッセイ。
串田孫一氏が、二十歳になったばかりの若い友人の死の床に駆け付けたときのことを綴った、今もなお、鮮烈な印象の残る一節です。
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その時に彼がかすかな声で、普段よく口をききながらする恥ずかしそうな表情をどこかにかすかに浮かべて言った言葉は「青い夏の空がもう一度見たかった」というのだった。そしてその言葉より幾分か大きく澄んだ声で「夏の青い空を見たかった」と言いなおした。私は何も答えなかった。もう一昼夜とはもちにくい生命のことを充分に知っている彼に、奇跡の起こりようはずもないことを知っている私が、「すぐによくなる。青い空の見える夏には何処へ行こう?」などとはとうてい言えなかった。私はただ「青い夏の空」という言葉を「夏の青い空」と言いなおして、その訂正を彼なりに満足していることをぼんやり考えていた。
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その、おそらくは山男であったろう若い研究者の友人が、やっと、口にすることのできた言葉「青い夏の空」。
なるほど、そうか… と、私は共感した。
そして、「夏の青い空」のほうが、文法的には正しいだろうが、この際、どっちでもいいと思った。
しかし、文筆家である串田孫一氏を前にして、その友人にはこだわりがあったのだろう。
それを、「夏の青い空」に訂正した。
そして、串田氏は「その訂正を彼なりに満足している」と記す。
これにも、なるほど… と、納得。
もう多くのことは望めない、今わの際に、新たな心残りとなってしまうこだわりを、おそらく渾身の力を振り絞って、取り除くことができたのだ。
人は、それぞれ固有のこだわりを、負って、追い求めて、生きる。それが、ほかの誰でもない、その人の人生なのだ。
エッセイは、若いころとは違う、自らの、更には年老いた母親の、夏を待ち受ける気持ち、炎天下の暑さの激しさ荒々しさ、避暑の良し悪し、などに触れたのち、串田氏はこれを、次のように結ぶ。
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はげしく荒々しく、そのために大きな崩壊さえも自ら招かざるを得ないような最盛期にあるものの姿から、目をそらせることはほうんとうではない。
もう一度夏の青い空を見たかったと言って死んだ若い友人は、その空に直接の魅力を感じていたのかも知れないが、その青さの前ではすべてのものの強烈な動きが要求され、烈しさが美と変わる舞台だからこそ愛したようにも思われてならない。
もう一度夏の青い空を見たかったと言って死んだ若い友人は、その空に直接の魅力を感じていたのかも知れないが、その青さの前ではすべてのものの強烈な動きが要求され、烈しさが美と変わる舞台だからこそ愛したようにも思われてならない。
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出典: 串田孫一 1959 「人生誌」 小山書店
改訂:2017.09.23 末梢表現変更
2017.09.24 末梢表現変更
改訂:2017.09.23 末梢表現変更
2017.09.24 末梢表現変更
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