過去の、ダビデに関する二つの記事、そこで私が主張した内容を、あるプロテスタント教会の伝道師、牧師、副牧師、の方々と問答する機会を得ました。長い問答の末一つに要約された疑問、教会と一般キリスト者の聖書理解に対して、私が聖書の記述に詳細に基づいて発した問いに対して、とうとう答えが示されないところまで問答が煮詰まりました。
昨年12月に入った頃、近くの公園をリハビリのため歩いている時、出会いがありました。
S.M. さん、日本語が達者なご婦人、アメリカの宣教団に派遣され近くの教会で英会話を教え、ご主人は3月に関連の神学校を卒業予定とのことでした。
公園の広い芝生をひと回り一緒に歩きながらさらにお話を聞く。
依って立つ教会は、福音派プロテスタントの H 教団と判る。
その教団については予備知識がありました。戦時中、ほとんどのキリスト教組織が戦争協力に応じていく中で、H 教団のメンバーはひどい弾圧を受け、多くの犠牲者を出したと、キリスト教の戦時下抵抗について記した本で読んだ記憶が残っていました。
そのこともあって、もう少し詳しい話を聞かせてもらえる機会をと思い、数日後に予定されているという、不特定の人々がコーヒーを飲みながら自由な話をする集いへのお誘いを快く受けました。
それを機に、以前ブログの記事にも書いた、ダビデの罪の深さ、ダビデの子イエスという呼称の誤り、精霊に人格(位格)を与える三位一体への疑問、等々を質問させて頂く機会を得ました。
その信仰問答は思いがけず長期にわたりましたが、ダビデに関する問いにはストレートな答えは得られず、紆余曲折し、混迷してしまいました。
そしてとうとう、問答は煮詰まり、これ以上の返答は望めないと思われる状況になってしまいました。
最後まで残った私の疑問には、反論もなく、間違いの指摘もなく、かといって内容に理解を示す返信があるわけでなく、要するに返答不能に陥ったと推察せざるを得ません。
一昨日、もはやこれまでと思い、問答終結のお願いのメールを送りました。
その問答終結のメールが、この問答の締め括りになっていますので、その内容を、固有名詞をイニシャルに変えて、以下に掲げます。
(読み易さ改善のため、原文の、てにおは及び副詞形容詞の文法的整合を改めています)
∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴
[引用始め]
H.K.先生、M.M.さん、S.M.さん、A.C.さん へ
長い間お導き頂きました信仰問答でしたが、ほぼ行き着くところまできた感がしております。
つきましては、これをもって問答の終結とさせて頂きたくお願い致します。
締め括りとして、問答の要点について反省を込めながら振り返り、少しだけ記してみます。
思えば長い間、実に9か月に渡って、H.K.先生とM.M.さんに、O教会の会堂で、そして数え切れない程のメールでお教え頂いて参りました。お忙しい中の貴重なお時間を割いてのお教えでした。にも関わらず、私ごとき不心得者は、自分が理解できないことに苛立ち、無礼で品位を欠く言葉を書き連ねてまいりました。深く反省し恥じております。どうかご容赦ください。
長期に渡った問答の始まりは、つぎの私の疑問三つでした。
1. 精霊の人格は理解しがたい。
2.「ダビデの子イエス」という呼称への疑問。
3. ダビデが悔い改めず罪を生涯継続したことへの疑問。
この三つの疑問から様々な教義や用語の説明をいただきました。そして、私の聖書の理解が片寄っているため、問答がすれ違ってしまうことが大変多く、聖書を全体的に理解できていない私は、その都度、苛立ちながらすれ違った事柄を聖書で調べて、問答を続けさせて頂きました。このすれ違いのせいで、あるいはそのおかげで、結果的に非常に多くのことを学びました。
問答の間を通じて、最も厄介だったのは「悔い改め」という言葉でした。
日本語聖書には文語訳も含めて「悔」と「改」の文字を繋いだ、熟語または複合語に訳されています。これは当然、悔いて改める、ことを意味します。この訳語が、私たちの問答を長引かせ、多くのすれ違いを生み、信仰義認の是非にまで話しが及びました。(それによっても大変よい勉強をさせて頂きました)。
「悔い改め」は、ヘブル語では “神に「立ち返る」“ の意であると、問答で教えて頂きました。英語でも、“repent“ 一語。これも “悔い“ るという精神活動を指し、“改め“ るという行為に関わる意味は全く含まないことが私にも判ります。
それにも関わらず日本語聖書では「悔いて、改める」ことを意味する「悔い改め」と書かれているので、私ごときは、つい数日前まで詩篇51に、“改め“ が全くないと立腹していました。もっともそれは、ダビデが行いを全く改めていない事実とぴったり重なっているためテンションが上がっていたせいでもあります。
しかし、今、詩篇51をほぼ完全に理解できるようになりました。そして、それが優れた「悔い」の一つであることに異論はありません。
それは、次の文章から学びました。
「内面的な悔い改めは、神のあわれみ深い愛にこたえるよう神の恵みに促された、「悔いる心」(詩編51・19)の動きです。
悔い改めには、罪を犯したことへの痛みと嫌悪、今後は罪を犯さないという固い決心、神の助けへの信頼が伴います。それは神のあわれみに対する希望によって養われます。」
悔い改めには、罪を犯したことへの痛みと嫌悪、今後は罪を犯さないという固い決心、神の助けへの信頼が伴います。それは神のあわれみに対する希望によって養われます。」
(カトリック教会のカテキズム 要約:カトリック中央協議会より引用:節番号は新共同訳)
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下記は、長い問答を経て、とうとう最後まで残った私の疑問です。
ダビデはその詩篇51において神の前に真摯な悔いを言い表しました。しかし、その後の行いには「今後は罪を犯さないという固い決心」の結果は伴わず、ウリヤの妻にソロモンを産ませ、さらにウリヤの妻と生涯共に暮らし姦淫を重ねました。(Ref. マタイ 1:6 及 列王記上 1:1 - 2:10)
ダビデはその立派な悔いによって、ウリヤの妻と共に、死刑を免れ、過去に犯した罪を赦され、それと同時に、その罪の行いを将来にわたって継続することをも許されたのでしょうか?
この疑問を、今日のキリスト者の方々は、どのように考えているのでしょうか?
ダビデはその立派な悔いによって、ウリヤの妻と共に、死刑を免れ、過去に犯した罪を赦され、それと同時に、その罪の行いを将来にわたって継続することをも許されたのでしょうか?
この疑問を、今日のキリスト者の方々は、どのように考えているのでしょうか?
この期に及んで、先生方に私のこの疑問への答えをお願いすることは差し控えさせて頂きます。
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私のダビデ病は完治していませんが、私の関心が、四世紀来のキリスト教から離れつつあり、苦にならなくなってきています。
H.K.先生、M.M.さん、S.M.さん、A.C.さん、長い間貴重なお時間を賜り、忍耐と赦しの心をもって私の愚問にお答え頂き、また見守って頂きましたこと、感謝に絶えません。ありがとうございます。
どうかこれからも、ダビデ問答以外の私の疑問をお尋ねさせて頂く機会を賜りますれば、この上ない幸いです。
皆様の、宣教と牧会の上に大いなる恵みがもたらされますようお祈りいたします。
[引用終り]
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関連記事:「土のちり( Uriah):ダビデとウリア;」
「改訂: 新改訳聖書(いのちのことば社)誤記?欺瞞?」
改訂:2019.09.25 読み易さ改善 これ→以下, アイコン変更
2019.09.29 この後→この期
2019.10.01 関連記事リンク追記, 冗長行削除
2019.11.26 タイトル訂正 ……キリスト教会→ ……福音派教会
2020.06.09 誤字訂正 渡り→わたり
2019.09.29 この後→この期
2019.10.01 関連記事リンク追記, 冗長行削除
2019.11.26 タイトル訂正 ……キリスト教会→ ……福音派教会
2020.06.09 誤字訂正 渡り→わたり
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