子供のころからなじみの深いメロディー、古くはダニーボーイという異なった歌詞の曲でも広く知らていました。あまりにもそれに馴染んでいて、反って深い印象のない曲… いやむしろ嫌な曲でしたが………
Cogito
はたなびく小旗の如く涕かんかな
或はまた別れの言葉の, こだまし, 雲に入り, 野末にひびき
海の上の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……
海の上の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……
2015-12-24
2015-12-12
ポール・ラッシュ博士 清泉寮
36年前のこの日、ポール・ラッシュ(Paul Rusch)博士が亡くなりました。
「昭和五十四年五月十五日、清里で寝たきりの生活のポールを世界聖公会の最高権威であるアーチビショップ・オブ・カンタベリーのラムゼイ主教が見舞った。彼は英国王室への王位授与者でもある。ポールの最後の栄誉だった。
その年の暮れ、病態が悪化したポールは十二月十二日午前零時三十二分、聖路加国際病院内科病棟で永眠した。
(中略)
最後を見とったのはそれまで二十年間メードとして付き添った中田リセだった。眠るように亡くなり、きれいな死に顔だったという。八十二歳の最後までアメリカ人の誇りを忘れず、日本人以上に日本を愛した生涯だった。」
山梨日日新聞社記者、井尻俊之さんは新聞紙上の連載記事「清里の父 ポール・ラッシュ伝」 (1984) をそう結んでいる。
関東大震災で被災したYMCAの復興のために派遣されてケンタッキーより来日し、その仕事を終えた後も日本にとどまり、56年に渡り生涯を日本のために捧げた。
ルドルフ・B・トイスラー博士と共に聖路加国際病院の殆どゼロからの設立に奔走し、その活動を通じて博士の不屈の精神、資金集めの手法、そして真のミッションとは何かなど多くを学んだ。
戦雲怪しくなり本国から退去の勧告がでても日本に留まることに固執していたが、開戦後強制送還されると、リメンバー・パールハーバーが渦巻くアメリカ国内で、多くの日本人は戦争を望んでいない、彼らは将来必ずアメリカのよき友人になると説いた。日系人立ち退き命令、それに伴う日系人強制収容所、これらを見たポールはパネル討論会を開き、アメリカ市民の日系人迫害と、それと同じ精神に支配されている日本を、共にヒットラーも同じだ、と糾弾したことを伝記記者は記す。
「有刺鉄線の中で差別に耐えている約十二万人の日系人たちに、われわれの言葉で、行動で見せてやろうじゃないか。民主主義の意味するものを、人類の正義とは何かを、個人の自由とは何かを、そして真のアメリカを―」(清里の父 ポール・ラッシュ伝より)。
この引用に述べられている彼の意志、そこにポール・ラッシュが生涯をかけて日本に留まり働き続けた理由と原動力があると思う。
そして、戦後、清里に農村コミュニティーを設立、それは清里農村センター、 KEEP (Kiyosato Educational Experiment Project) へと更に発展する。
現在、清里の清泉寮に KEEP(公益財団法人キープ協会)の本部があり、ポール・ラッシュ記念館が併設されています。
サイドバーにKEEP協会と清泉寮へのリンクを掲げます。
Ref.:
Elizabeth Anne Hemphill 1969「The Road to KEEP」
山梨日日新聞社編 1986「清里の父 ポール・ラッシュ伝」
財団法人キープ協会 1997「キープ協会 50年の歩み」
財団法人キープ協会 2003「清里に使いして・A Triumph of Faith」
「昭和五十四年五月十五日、清里で寝たきりの生活のポールを世界聖公会の最高権威であるアーチビショップ・オブ・カンタベリーのラムゼイ主教が見舞った。彼は英国王室への王位授与者でもある。ポールの最後の栄誉だった。
その年の暮れ、病態が悪化したポールは十二月十二日午前零時三十二分、聖路加国際病院内科病棟で永眠した。
(中略)
最後を見とったのはそれまで二十年間メードとして付き添った中田リセだった。眠るように亡くなり、きれいな死に顔だったという。八十二歳の最後までアメリカ人の誇りを忘れず、日本人以上に日本を愛した生涯だった。」
山梨日日新聞社記者、井尻俊之さんは新聞紙上の連載記事「清里の父 ポール・ラッシュ伝」 (1984) をそう結んでいる。
関東大震災で被災したYMCAの復興のために派遣されてケンタッキーより来日し、その仕事を終えた後も日本にとどまり、56年に渡り生涯を日本のために捧げた。
ルドルフ・B・トイスラー博士と共に聖路加国際病院の殆どゼロからの設立に奔走し、その活動を通じて博士の不屈の精神、資金集めの手法、そして真のミッションとは何かなど多くを学んだ。
戦雲怪しくなり本国から退去の勧告がでても日本に留まることに固執していたが、開戦後強制送還されると、リメンバー・パールハーバーが渦巻くアメリカ国内で、多くの日本人は戦争を望んでいない、彼らは将来必ずアメリカのよき友人になると説いた。日系人立ち退き命令、それに伴う日系人強制収容所、これらを見たポールはパネル討論会を開き、アメリカ市民の日系人迫害と、それと同じ精神に支配されている日本を、共にヒットラーも同じだ、と糾弾したことを伝記記者は記す。
「有刺鉄線の中で差別に耐えている約十二万人の日系人たちに、われわれの言葉で、行動で見せてやろうじゃないか。民主主義の意味するものを、人類の正義とは何かを、個人の自由とは何かを、そして真のアメリカを―」(清里の父 ポール・ラッシュ伝より)。
この引用に述べられている彼の意志、そこにポール・ラッシュが生涯をかけて日本に留まり働き続けた理由と原動力があると思う。
そして、戦後、清里に農村コミュニティーを設立、それは清里農村センター、 KEEP (Kiyosato Educational Experiment Project) へと更に発展する。
現在、清里の清泉寮に KEEP(公益財団法人キープ協会)の本部があり、ポール・ラッシュ記念館が併設されています。
2004年刊「清里の父 ポール・ラッシュ伝」第三版 (初版は1986年) |
Ref.:
Elizabeth Anne Hemphill 1969「The Road to KEEP」
山梨日日新聞社編 1986「清里の父 ポール・ラッシュ伝」
財団法人キープ協会 1997「キープ協会 50年の歩み」
財団法人キープ協会 2003「清里に使いして・A Triumph of Faith」
2015-11-27
2015-11-07
ベルナルド・ベロット
Bernardo Bellotto (1720.1.30 - 1780.10.17) イタリアの画家
建築物や自然の精密な描写が美しい・・・しかし、よく見ると、点景のようにあるいは風景の一部のように描かれた人々や動物のリアルな姿態が面白い。中には、動作途中のおかしな格好をしていたりする人がいて、あたかも無作為にシャッターを切って写し取られた写真のようだ。
人の動きは面白いだけでなく、それは描かれている中世の街並みや風景を、人の住む場所として生き生きとして見せる。
ランプと井戸水と馬車によるその町の暮らしを思わせるような・・・不思議なリアリティを生み出している。
写真家、アンリ・カルティエ・ブレッソンは「決定的瞬間」と呼ばれる作風で多くの作品を表したが、ベロットの画はそれを彷彿とさせる。
それぞれの作品を作り上げる手法・作業が全く異なるだけでなく、その意味するところも味わいも比較のしようもなく異なるが、何か共通のもの、写真と絵画の違いを超えた何かがあるように思う。
“Dresden seen from the right banks of the river Elbe below the bridge Augustus” |
"View of Gazzada near Varese" |
ランプと井戸水と馬車によるその町の暮らしを思わせるような・・・不思議なリアリティを生み出している。
写真家、アンリ・カルティエ・ブレッソンは「決定的瞬間」と呼ばれる作風で多くの作品を表したが、ベロットの画はそれを彷彿とさせる。
それぞれの作品を作り上げる手法・作業が全く異なるだけでなく、その意味するところも味わいも比較のしようもなく異なるが、何か共通のもの、写真と絵画の違いを超えた何かがあるように思う。
2015-10-25
J.S. Bach 「主よ、人の望みの喜びよ」
・・・呆然として、すっかり手を止めてしまっている指揮者のアルノンクールが、右手をそっと顔にあて、目じりを拭う・・・
第5曲、ソプラノが最後のフレーズを歌いあげ、独奏バイオリンが美しくも切ないメロディーを奏でているとき、カメラが指揮者に振られると、うつむいて目を閉じ、両手を下げたままの陶酔したようなアルノンクールの姿があった。
クリスティーネ・シェファーの澄んだ歌声と独奏バイオリンが繰り返し奏でる祈りは、まさに天上の音楽であるかと思われ、聞く者の心の奥深くに浄化をもたらす。
演奏中の曲の指揮者といえども、いやだからこそ、心を動かされたのだと、私は思う。
次の第6曲はその旋律が「主よ、人の望みの喜びよ」としてあまりにも有名な曲であるが、この曲を振り終わって、アルノンクールはその手を上げたまましばし動かなかった(あるいは、動けなかった)。
ジョルジュ・プレートルに似て、演奏する曲の曲想と自らの心情とを強く意識して音楽を作り上げていくタイプなのかも知れない。
若いころのアルノンクールは、そのなり振りに才気がほとばしっているような感じがあって、何か、ゆったりと音楽を聞く気分になれないような雰囲気をもたらしていたが、年を経て円熟の境地になって余裕がでてきたように思う。
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埋込ビデオクリップはバッハのカンタータ「心と口と行いと生活で」。
00'00" 第1曲 合唱「心と口と行いと生活で」
05'02" 第2曲 レチタティーヴォ「祝福されし口よ」
06'50" 第3曲 アリア「おお魂よ、恥ずることなかれ」
10'26" 第4曲 レチタティーヴォ「頑ななる心は権力者を盲目にし、
最高者の腕を王座より突き落とす」
12'08" 第5曲 アリア「イエスよ、道をつくり給え」
16'33" 第6曲 コラール合唱「イエスはわたしのもの」
19'42" 第7曲 アリア「助け給え、イエスよ」
23'23" 第8曲 レチタティーヴォ「全能にして奇跡なる御手は」
25'46" 第9曲 アリア「われは歌わんイエスの御傷」
28'40" 第10曲 コラール合唱「イエスは変わらざるわが喜び」
*前半の終曲第6曲と後半の終局第10曲に奏でられる旋律が「主よ人の望みの喜びよ」として広く親しまれている。
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32'29"
Cantata BWV 147 "Herz und Mund und Tat und Leben" (1716 & 1723)
Comp: Johann Sebastian Bach (1685-1750)
Soprano: Christine Schäfer
Mezzo-soprano: Bernarda Fink
Tenor: Ian Bostridge
Baritone: Christopher Maltman
Choir: Arnold Schoenberg Choir
Orch: Concentus Musicus Wien
Cond: Nikolaus Harnoncourt
Live from the Kloster Melk, Benedictine Monastery in Austria, 2000
Cantata BWV 147 "Herz und Mund und Tat und Leben" (1716 & 1723)
Comp: Johann Sebastian Bach (1685-1750)
Soprano: Christine Schäfer
Mezzo-soprano: Bernarda Fink
Tenor: Ian Bostridge
Baritone: Christopher Maltman
Choir: Arnold Schoenberg Choir
Orch: Concentus Musicus Wien
Cond: Nikolaus Harnoncourt
Live from the Kloster Melk, Benedictine Monastery in Austria, 2000
注) アルノンクール氏は、この記事から半年ほど後の 2016年3月5日 に亡くなられました。
安らかな眠りにありますよう、心からお祈り申し上げます。
改訂:2018.01.27 ビデオクリップ埋込 タイトルに曲名・脚注に訃報追記安らかな眠りにありますよう、心からお祈り申し上げます。
2015-10-09
2015-09-28
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