「昭和五十四年五月十五日、清里で寝たきりの生活のポールを世界聖公会の最高権威であるアーチビショップ・オブ・カンタベリーのラムゼイ主教が見舞った。彼は英国王室への王位授与者でもある。ポールの最後の栄誉だった。
その年の暮れ、病態が悪化したポールは十二月十二日午前零時三十二分、聖路加国際病院内科病棟で永眠した。
(中略)
最後を見とったのはそれまで二十年間メードとして付き添った中田リセだった。眠るように亡くなり、きれいな死に顔だったという。八十二歳の最後までアメリカ人の誇りを忘れず、日本人以上に日本を愛した生涯だった。」
山梨日日新聞社記者、井尻俊之さんは新聞紙上の連載記事「清里の父 ポール・ラッシュ伝」 (1984) をそう結んでいる。
関東大震災で被災したYMCAの復興のために派遣されてケンタッキーより来日し、その仕事を終えた後も日本にとどまり、56年に渡り生涯を日本のために捧げた。
ルドルフ・B・トイスラー博士と共に聖路加国際病院の殆どゼロからの設立に奔走し、その活動を通じて博士の不屈の精神、資金集めの手法、そして真のミッションとは何かなど多くを学んだ。
戦雲怪しくなり本国から退去の勧告がでても日本に留まることに固執していたが、開戦後強制送還されると、リメンバー・パールハーバーが渦巻くアメリカ国内で、多くの日本人は戦争を望んでいない、彼らは将来必ずアメリカのよき友人になると説いた。日系人立ち退き命令、それに伴う日系人強制収容所、これらを見たポールはパネル討論会を開き、アメリカ市民の日系人迫害と、それと同じ精神に支配されている日本を、共にヒットラーも同じだ、と糾弾したことを伝記記者は記す。
「有刺鉄線の中で差別に耐えている約十二万人の日系人たちに、われわれの言葉で、行動で見せてやろうじゃないか。民主主義の意味するものを、人類の正義とは何かを、個人の自由とは何かを、そして真のアメリカを―」(清里の父 ポール・ラッシュ伝より)。
この引用に述べられている彼の意志、そこにポール・ラッシュが生涯をかけて日本に留まり働き続けた理由と原動力があると思う。
そして、戦後、清里に農村コミュニティーを設立、それは清里農村センター、 KEEP (Kiyosato Educational Experiment Project) へと更に発展する。
現在、清里の清泉寮に KEEP(公益財団法人キープ協会)の本部があり、ポール・ラッシュ記念館が併設されています。
2004年刊「清里の父 ポール・ラッシュ伝」第三版 (初版は1986年) |
Ref.:
Elizabeth Anne Hemphill 1969「The Road to KEEP」
山梨日日新聞社編 1986「清里の父 ポール・ラッシュ伝」
財団法人キープ協会 1997「キープ協会 50年の歩み」
財団法人キープ協会 2003「清里に使いして・A Triumph of Faith」
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