若くして作家としての名声を確立したトーマス・マンが、創作の苦悩、感性と理性の狭間での葛藤、などを描いた「トニオ・クレーゲル」、マン27歳の作。
「自分の心に深く結びついた、忘れがたい作品」であると、後の「小自叙伝」に記してるとのこと(出典訳者後記)。
春になると芸術の創作はできないからカフェに行く、という短編作家アーダルベルトと別れたトニオは、友人の女流画家、リザヴェータ・イヴァーノブナを訪れ、語る;
以下引用:
出典:トニオ・クレーゲル 高橋義孝訳 1956 新潮文庫
注)数か所に改行追加 一部ルビ追加
「自分の心に深く結びついた、忘れがたい作品」であると、後の「小自叙伝」に記してるとのこと(出典訳者後記)。
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春になると芸術の創作はできないからカフェに行く、という短編作家アーダルベルトと別れたトニオは、友人の女流画家、リザヴェータ・イヴァーノブナを訪れ、語る;
以下引用:
「春は仕事がやりにくい。これは確かだ、ではなぜなんでしょう。感ずるからなんですよ。それから、創造する人間は感じてもいいなんて思いこんでいる奴らは大馬鹿者だからですよ。
本物の正直な芸術家なら誰だって、そういう浅はかなぺてん師式の妄想に会っては微笑してしまいます──たぶん憂鬱にね、けれども微笑しますよ。
なぜかっていえば、人が口で言うことは絶対に肝心なものなんかじゃありえない。それだけをとって考えてみればどうだっていいようなものにすぎない。そういうものは、肝心かなめの美的形象が遊戯的な悠々たる優越さのうちに作り出されるための材料にすぎないんです。
あなたが言うべきことをひどく大切に考えていたり、そのことのために心臓をあんまりどきどきさせたりすれば、まず完全な失敗は間違いのないところでしょう。悲愴になる、センチメンタルになる、それでどうかというと、何か鈍重な、不手際で大真面目な、隙間だらけの、鋭さを欠いた、薬味の入っていない、退屈平凡なものが生まれるだけなのです。
そうしてその結果は、世間はつまり冷淡にそれを迎えるだけだし、あなた自身はといえば失望と苦痛だけしかてにいれられない。
……全く事実はそのとおりなんです、リザヴェータさん、感情っていう代物は、暖かい心のこもった感情っていうやつは、いつだって平凡で使いものにならない。
芸術的なのはね、われわれの破壊された、われわれの職人風の神経組織の焦立たしさと氷のような忘我だけなんです。人間的なものを演じたり、弄んだり、効果的に趣味ぶかく表現することができたり、また露のほどでも表現しようという気になるにはですね、われわれ自身が何か超人間的な、非人間的なものになっていなければならなし、人間的なものにたいして奇妙に疎遠な、超党派的関係に立っていなければならないんです。
様式や形式や表現への才というものがすでに人間的なものにたいするこういう冷やかで小むずかしい関係、いやある人間的な貧困と荒廃を前提としています。どのみち健全で強い感情は没趣味的なものですからね。
芸術家は、人間になって、感じ始めると、もうおしまいです。アーダルベルトはこれを知っていた、だからカフェへ、『超越的領域』へ行ってしまったんです、もちろんですよ」
「じゃ、そんな人のことなんかほうっておおき遊ばせよ、 小 父 さま」こう言ってリザヴェータは、ブリキの 金 盥 で手を洗った。
「あなたはその方についていらっしゃることはないわ」
「そうなんですよ、リザヴェータさん。私はついて行きはしない。ほかでもない、私は時おり自分の芸術家としての生活を多少は春に対して恥じることができるからなのです。・・・・・・」
本物の正直な芸術家なら誰だって、そういう浅はかなぺてん師式の妄想に会っては微笑してしまいます──たぶん憂鬱にね、けれども微笑しますよ。
なぜかっていえば、人が口で言うことは絶対に肝心なものなんかじゃありえない。それだけをとって考えてみればどうだっていいようなものにすぎない。そういうものは、肝心かなめの美的形象が遊戯的な悠々たる優越さのうちに作り出されるための材料にすぎないんです。
あなたが言うべきことをひどく大切に考えていたり、そのことのために心臓をあんまりどきどきさせたりすれば、まず完全な失敗は間違いのないところでしょう。悲愴になる、センチメンタルになる、それでどうかというと、何か鈍重な、不手際で大真面目な、隙間だらけの、鋭さを欠いた、薬味の入っていない、退屈平凡なものが生まれるだけなのです。
そうしてその結果は、世間はつまり冷淡にそれを迎えるだけだし、あなた自身はといえば失望と苦痛だけしかてにいれられない。
……全く事実はそのとおりなんです、リザヴェータさん、感情っていう代物は、暖かい心のこもった感情っていうやつは、いつだって平凡で使いものにならない。
芸術的なのはね、われわれの破壊された、われわれの職人風の神経組織の焦立たしさと氷のような忘我だけなんです。人間的なものを演じたり、弄んだり、効果的に趣味ぶかく表現することができたり、また露のほどでも表現しようという気になるにはですね、われわれ自身が何か超人間的な、非人間的なものになっていなければならなし、人間的なものにたいして奇妙に疎遠な、超党派的関係に立っていなければならないんです。
様式や形式や表現への才というものがすでに人間的なものにたいするこういう冷やかで小むずかしい関係、いやある人間的な貧困と荒廃を前提としています。どのみち健全で強い感情は没趣味的なものですからね。
芸術家は、人間になって、感じ始めると、もうおしまいです。アーダルベルトはこれを知っていた、だからカフェへ、『超越的領域』へ行ってしまったんです、もちろんですよ」
「じゃ、そんな人のことなんかほうっておおき遊ばせよ、 小 父 さま」こう言ってリザヴェータは、ブリキの 金 盥 で手を洗った。
「あなたはその方についていらっしゃることはないわ」
「そうなんですよ、リザヴェータさん。私はついて行きはしない。ほかでもない、私は時おり自分の芸術家としての生活を多少は春に対して恥じることができるからなのです。・・・・・・」
Thomas Mann,1903,"Tonio Kröger", 高橋義孝 訳
出典:トニオ・クレーゲル 高橋義孝訳 1956 新潮文庫
注)数か所に改行追加 一部ルビ追加
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十代の終わりごろこの本を読んで、引用した一節を含む "理性と感性" の拮抗のありかたに大きな感化を受けた、といま自らを振り返ってそう思います。
私はたぶんこの著作の影響で "芸術" という、言葉あるいは用語、に大変用心深くなったように思います。
芸術そのものではなく、その言葉が安易に多用されるのが厭で、あまり口にしたくなくなりました。
卑近な例をあげると、「写真は芸術でありうるか?」などといわれると、その問いをまるごと門前払いしたくなります。
いっとき結露で曇っただけの窓ガラス一枚ですら芸術の媒体となりうるのに、何を…。?
つまり、"芸術" という言葉の理解が私とは違うのでしょう …もちろん私が正しいとはいいませんが。
しかし、十代のたぶんまだ柔らかかったであろう頭に読み込まれた、トニオ(南国の感性豊かな文化圏の名)とクレーゲル(北国の理性の勝る文化圏の名)の相克は、その後数十年にわたって私の思考に作用しています。
改訂:2018.01.08 リザヴェータ → リザヴェータ・イヴァーノブナ
2018.01.08 女絵かき → 女流画家
2018.01.10 末梢誤植訂正
2018.09.09 それを → その問いを
2018.01.08 女絵かき → 女流画家
2018.01.10 末梢誤植訂正
2018.09.09 それを → その問いを
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