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Cogito


東明の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
はたなびく小旗の如く涕かんかな

或はまた別れの言葉の, こだまし, 雲に入り, 野末にひびき
海の上の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……

改訂情報:


- 二人乗り自転車の歌 重要: たくさん分かち合う→運命を共有する (韻に託けて文法無視で意訳した前訳を改訂)

- ホセ・カレーラス「光さす窓辺」 対訳付き原語歌詞追記

2023-05-23

窮鼠… 猫を噛む


頑張れ、ネズミ
力一杯、精一杯… 噛むんだ

写真: 私の袖口に来てひと冬の宿を乞うてんとう虫


「栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか」
  - マタイ6:29-30 部分 日本聖書協会 口語訳聖書


そこで、思う… 私と同じ哺乳類で傷付けば痛み血が流れ死に至るネズミくんにも、 神がよくしてくださらないはずはない…
そう思いたいところですが…
なぜネズミは猫に喰われなければならないのか?

実に、ネズミよりはそうとう強そうな羊も牛も、また赤ずきんちゃんも、森に入った命知らずも、野獣に猛禽類に、またワニにサメに襲われ恐怖と断末魔の苦痛のうちに生きたまま喰われてしまう。
そして、その環境は生態系と呼ばれ、それはそのように正しく維持されなければならないとされる。

つまり、生きたまま食い殺される宿命を負って生まれてくる命が常に必要とされ、その受け入れ難い宿命の命を一定数維持する体系が組まれているということ。

それはそう… それ以外ではないのでしょう… この悪しき世に生きることを余儀なくされている命の現実は。


∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥


私は4,5歳の頃、当時流行っていた伝染病(赤痢?)にかかり、生死は今夜が峠といわれる瀕死の状態となったと言われている。
幸い、東京で医師をしていた叔母が遠路駆けつけてくれて、その頃地方では入手が難しかった抗生物質を注射してくれたおかげで一命を取り留め、以来70余年を生きながらえている。
もし私が5歳で死んでその死が眠るように安らかな死であったとしたら… 私はそのような短い命にもその存在の意味を見出すことができ、それに慰めを覚える。
だが、そこに一つ問題がある。なぜ "安らかな死であったら" という条件がつくのか?

もろもろの命を自ら創造しておきながら…
なぜその命に、生きたまま喰い殺されるという宿命を負わせるのか?(創世記 9:3)
なぜその命の上に、山は崩れ、地は揺れ、海は溢れるのか?
なぜそのような悪の存在をも、ヒトの罪(=原罪)に転嫁するのか?

確かにヒトは悪い。
だからといって、草を食むだけで何ら身を守る術のない子羊を、生きながらにして猛獣や猛禽類、地を這うものなどの餌食とし、また、家畜や家禽を人に殺させ食わせるのか?
ヒトが罪を犯したからといって、罪のない動物を残虐に撃つのか?


∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥


死に直面してもなお穏やかな時を持てて、過ぎし時の恵みを思い、親しい者への、そして未知の心ある人々への感謝を覚えるとしたら… それはそれで、良い。

しかしそうはならず、この不条理の世にあって理不尽な死に直面したら…

吠えろ
噛みつけ
極限の憎悪を "絶対者" の脳裏に焼き付けるのだ


∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥


所詮此岸に過ぎぬこの世の不条理をこのようにあげつらうことに、実はあまり意味はない。
それはいくら考察してみても、解らないこと。
では、なぜそれをあえて書き、吠えるのか?
………
それは、解らなことを判らないとせず、それへの理不尽な理由づけ、言い逃れ、ごまかし、謂れなき託宣などをすることが断じて受け入れられないからに他ならない。
夢や、幻、盲信、などに拠らず、解らないことは判らないとしないと、真実に到達することはできない。

パウロは自分が主の 再臨の時* まで 生き残る** と盲信して逆境をものともせず宣教にまい進し、それゆえ捕えられ処刑され、恐らくパウロにしてみれば未だ再臨を見ていないので死ぬことはないと信じて裁きに臨んだのであろうが、厳然たる事実の前に刑死した***。

* その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。マタイ 24:36 聖書協会 口語訳聖書

** 生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが I テサロニケ 4:15 聖書協会 口語訳聖書

*** 刑死した 1次:新約聖書-付表 岩波書店 2004 P.990, 2次:パウロ -ja.wikipedia


∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥


よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう
ルカ 23:43 聖書協会 口語訳聖書

これは、時空を超え、形而上に架かる橋。
これにより次の預言が成就した。

見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない
イザヤ 65:17 聖書協会 口語訳聖書


こうして、この世にある私の思考は振り出しに戻りまた廻ります。

頑張れ、ネズミ
頑張れ、てんとう虫
…↓
…↓
よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒に… ⤴︎


これは呪われ虐げられた命を謳う "常動曲" … 低い音色ねいろで まわる、まわる……



春が来るまで…… ひと冬泊めてください (2022.11.25)



改訂:2023.05.29 レイアウト修正, 末梢表現変更, コメント受付手順修正, 他
2023.06.07 ***引用元表示, レイアウト修正
2023.06.11 末梢表現変更
2023.08.27 誤植訂正
2024.04.17 細部レイアウト修正


3 件のコメント:

  1. 森 宗孝2023/05/28 11:17

    アローハ エデンの園の外で祈られている深澤さんへ ハワイのクリスチャン友人、森より 
     最初に、貴兄が心を尽くして色々な方々に対して手を伸ばされている事、思うような結果が出ていないかもしれませんが決して悲観的になりませんように、いくつか聖書のみことばを引用させて下さい。
     「私が苦しみの中を歩いてもあなたは私を生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばしあなたの右の手が私を救ってくださいます。詩篇138:7
     「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。後のことを人にわからせないためである。」伝道者の書7:14
     なぜこの世に悪がはびこり、災いが善良な者に降りかかるのか、本当に神は居るのか、と問いたくなる今の時代ですね。確かに大自然の中では生存競争のために殺戮があり、弱い動物が強い動物に食べられる生態系です。でも自然には怒りの時もあれば、親鳥の翼の下で育てられた小鳥が飛び立つ時、初めて一人で立てた子羊が跳ねる時の喜びの時もあります。
     自分は聖書にある全能の神を信じる人間ですから、聖書から答えを探るわけですが、創世記3章17節 アダムとエバがなぜ禁断の実を食べてしまったかの言い訳をしている中で「大地は、あなたのゆえにのろわれる」とあります。この世に、まずは人の魂の死が訪れ、肉体の死も始まりました。エデンの園を追い出された人間は、一生の間、苦しんで大地から食を得ることになってゆきます。 それでは全てが死で終わり、The Endなんでしょうか? そうであれば毎日を自分だけが楽しい事をして暮らせれば一番となりますね。では何故、貴兄は他人に手を伸ばして助けようと思うのでしょう。人が自分の人生の目的を知る時、なぜ神が自分という存在を造られたかを知って、その目的を達成しようとする時に一番の幸せがあるのではないでしょうか。
     しかし、自分たちはハワイでホームレス伝道を手伝っているのですが、困っている人を助けようと、関わりを持てば持つほど、自分の愛の足りなさ、相手の弱さが見えて、寛容でない自分の姿を見せつけられています。ここで恵みの訓練から逃げるのではなく、そこに踏み止まって、主の御声を聞くのです。 主が私たちに問われていることは「自分では決してできないことのために、私たちは召されている」自分でできると考える時に、私たちは自己満足の罪を犯したりしてしまうのです、主の戦いを戦うのではなく、自分の戦いを戦ってしまうことで傷つきやすくなってしまいます。信仰はまずは聴くことから始まるのです。 祈っていますね!
    マハロ 

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    返信
    1. 森兄のコメントへの返信その2です。

      > なぜこの世に悪がはびこり、災いが善良な者に降りかかるのか、本当に神は居るのか、と問いたくなる今の時代ですね。
      ・・・
      ・・・ 創世記3章17節 アダムとエバがなぜ禁断の実を食べてしまったかの言い訳をしている中で「大地は、あなたのゆえにのろわれる」とあります。この世に、まずは人の魂の死が訪れ、肉体の死も始まりました。エデンの園を追い出された人間は、一生の間、苦しんで大地から食を得ることになってゆきます。 
      それでは全てが死で終わり、The Endなんでしょうか? 
      そうであれば毎日を自分だけが楽しい事をして暮らせれば一番となりますね。
      では何故、貴兄は他人に手を伸ばして助けようと思うのでしょう。

      → 最後の私への問いの答えは、はっきりしていました。私が “公平” を望んでいたからです。この悪しき世にあって何か意味のある行為があるとするなら、それは世にある不公平の是正に励むこだと考えていたからです。カインへの差別が是正されることを望んでいたからです。
      この節を過去形で書いているのは昨日から私の世界観が変わりつつあるからで、その詳細は少しづつ後述します。

      > 人が自分の人生の目的を知る時、なぜ神が自分という存在を造られたかを知って、その目的を達成しようとする時に一番の幸せがあるのではないでしょうか。

      → 今まで考えたことのないちょっと難しい設問に戸惑っています。
      一寸の虫が自分の力で小さな石ころ一つほどの不公平を何がしか正そうと試みているだけです。それが神が私に望む目的と合致するか否か、今、神への理解が揺れ動いている私には判りません。
      「なぜ神が自分という存在を造られたかを知って…」そのなぜは、何がしかの確率で猛獣や猛禽類の餌となり生態系を維持するためでもあると思われます。今ヒトは武力を使って餌食となることをほぼ阻止していますが(これ罪ですね)、創造の目的においてそうであることに変りはありません。

      神は私の髪の毛の数まで知っておられ、私が何を行いどう生きるかを逐一掌握しておられるでしょう。しかし、もし私が不条理の死に直面したとしても、神がその不条理を取り去ってくれることは未来永劫ないと思われます。他方、私がライオンに喰われるという危機に直面することは、神が私を造られた理由の一つ、生態系の維持、に叶っているということでもあり不条理でもなんでもないことになります。
      夢や幻の中でそう教わったのではありません。
      コヘレトの「後のことをわからせないためである」の言葉にその確証を得ました。
      そして、長い間探し求めてきた “キリスト教(特に創世記を重んじる伝統的キリスト教)の世界観” への関心は、ほぼ失せました。
      同時に私自身の世界観の矛盾にも気がつき、今それを改めつつあります。

      私にとって今一番の問題は、この不条理の世が神の創造の意図に沿うものであり「後のことをわからせない」ようにしているのであれば、命ある者たちの残酷な死も生態系の維持の一部にほかならず不条理ではないことになり、この世の問題は消え去ります…… だがそこに、神の愛はいったいどこにあるのか?、という致命的な疑問が残ります。

      そこで特効薬のように役に立つのが、原罪の教理ですね。
      そして、キリストによる贖罪の教理ですね。

      神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。-ヨハネ 3:16 口語訳

      私は、ヒトの犯した罪が重く、仮に死罪にあたるとしても、それへの罰を理由に、”自ら創造した諸々の命を未来永劫喰い殺し合わせる神” は断じて受け入れることができません。
      この原罪と食肉の因果関係(教理?)を取り去る新たな世界観が示せないのであれば、その創り主は神の概念から逸脱していて、問題外です。この点はグノーシスの主張が正しい。

      そこで今、イザヤ書に一縷の望みを託しているわけですが、風前の灯のようなそれへの考察は次の機会に譲ります。

      貴重なコメントをいただけましたこと、改めてお礼申し上げます。
      ありがとうございます。


      削除
  2. 森 兄、お久しぶりです。

    日常の福祉活動等への励ましのお言葉、そして、み言葉の引用、また混迷する私の思考への励ましのお言葉の数々、ありがとうございます。

    み言葉の引用をこうして書き送っていただくと、自分で書を開いてみるとのは違う角度から見ることができ、そこに進展が生まれますね。
    特に引用いただいた伝導の書7:14の理解が進み、最近行き詰まっていた私の思考が前進し始めましたので、ここに記してみます。

    ∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥

    「後のことを人にわからせないためである」…… これ、なんだろうと首をひねっても解が見つからずに終っていましたが、今、少し違って見えはじめています。

    後のことがわかったら、つまり全てが明らかになったら、きっと身も蓋もない思いがするに違いないだろう……
    そもそも “生きる” とは三大欲求と時々の喜怒哀楽が関わる “可能性” にある。可能性は判らないこと(未知/不確定なこと)の中にしかあり得ない。
    ”わからない” ということは、不可知であり不思議であり、それは理不尽を含み、更には不条理をも生む。

    読めた!
    コヘレトは、神は被造物にこの世の全貌は “わからせない” ということ、つまり世には理不尽と不条理があるということ、そしてそれは神がそれをそこに置いたからである、というのだ!

    それはまさに、当記事「窮鼠、猫を噛む!」からの下記引用と符合します。

    「それは、解らないことを判らないとせず、それへの理不尽な理由づけ、言い逃れ、ごまかし、謂れなき託宣などが断じて受け入れられないからに他ならない。
    夢や、幻、盲信、などに拠らず、解らなことは判らないとしないと、真実に到達することはできない。」

    不条理がここにあるということ、それは命の源がそこにあるということ。
    なぜなら、”生きる” と “可能性” とが同義語であるから、そして可能性は解らないことの中にのみあるから。
    解らないことの最右翼である不条理と対峙して永遠の命に至る可能性が生まれる。

    ∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥

    この度このような貴重なコメントを頂けましたこと深く感謝いたします。
    これは、もう一つ引用された「私が苦しみの中を歩いてもあなたは私を生かしてくださいます」の恵みそのもの、主が森兄を介して私にくださったのですね。
    ありがとうございます。

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