"Nobody's Child" は、孤児院で育つ目の見えな少年の歌。その歌詞が、私の心の蟠りを洗い流し、あるシンプルな結論ないし決意に導きます。
君、何思すらん
"Nobody's Child" 第3節の歌詞より:
ないんだ、ママの腕が …抱いてくれてたり
なだめてくれたりする …ぼくが泣いた時にね。
ときどき、ものすごくさびしくなるよ …ここでね。
できることなら、死んでしまいたい…
なだめてくれたりする …ぼくが泣いた時にね。
ときどき、ものすごくさびしくなるよ …ここでね。
できることなら、死んでしまいたい…
ぼくはね、街を歩くんだ …天国のね。
そこでは、見えないみんなも、見えるようになって、
ほかの子たちと、みんな同じなんだよ。
そこは、ぼくのための、おうちなんだ。
そこでは、見えないみんなも、見えるようになって、
ほかの子たちと、みんな同じなんだよ。
そこは、ぼくのための、おうちなんだ。
-The Alexander Brothers : Nobody's Child (土風空) から引用
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そうだね!そのおうちではきっと、ママもパパも一緒だね。
そこは、分け隔てなく、そして終わることのない、不偏無窮の愛でいっぱいなんだよ!
この世で、全ての夢が破れても、どんな艱難辛苦に見舞われても、"ぼくのためのおうち" は絶対に変わらない、無くならない。
それは、最高の希望。
それはもう、神様とおなじだ。
だから、希望することと信仰することは、同じなんだ。
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そして、…
神は "愛" ではない。断じて。
愛は、愛されない者や愛されない事物を生む。
すなわち、愛は有害無益な差別を生む。
"神の愛 (アガペー)" というものがあるといわれ、それは "人の愛" とはまったく異なるという。それをいくら丁寧に説明されても、所詮、地にあるヒトの限界のうちにある私には、それがどんなものかを想像することすら難しい空論にしか聞こえず、私が生きていく上でそれはどのような意味も持ち得ない。
そして、私が想定し得るこの世のどのような局面においても、空論でない "愛" は、多かれ少なかれ諸刃の剣として作用する。
創世記の神は、その愛を、アペルの上に、アブラハムの上に、イスラエルの民に注ぎ、ヒトの心に対立と妬みと憎しみを創造し、後には "目には目を、歯には歯を" と教えた。以来、民族間の殺し合いは今もなお続き、強欲や怨念による殺人は後を絶たず犠牲者は数えきれない。
しかし、これらの "愛" を含む古い世の神の所業は、イザヤへの預言で「先のこと」として全て否定されている。
このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望、この二つである。
そのうち "希望" は、私が想定し得る神の姿あるいは概念とぴったり重なる。
心の内にその希望の火を灯し続ける意志が "信仰" であり「永遠の命に至る水」である。
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「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。」 - イザヤ 65:17 日本聖書協会 口語訳聖書
イザヤに与えられた「神の国」への預言です。
Nobody's Child の少年が、溢れる日の光に興じ母の胸に抱かれ、不偏無窮の愛が満ちる「天国」の到来です。
そこに招き入れられる時が来るまで、この見捨てられた世にあって不条理を耐え忍び、"神の国" の住人となる希望に導かれて、己れの良心が学んできた倫理を貫いて生きる、ということですね。
他の全ての希望が絶たれてもなお、私が依り頼み導いてもらえる "希望"。
それは、私の探し求める "神" そのものです。
君、何思すらん
わかっていただけましたでしょうか?
注)タイトルの "考"=考察の意
注)何思すらん=古語 - 何を (orどう) 思われますか?(敬語表現)
関連記事へのLINK:「The Alexander Brothers : Nobody's Child (改訂版))
」
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2024.12.05 末梢表現変更
お久しぶりです。 ハワイの森です。
返信削除さて、アガペの愛、確かに神の愛は不完全である私たちには理解しずらい愛ではありますが、それでも私たちが通常考えるLoveとは異なる事は事実です。私たちが望むLoveは、心良く、新鮮で、暖かい、母の胸で抱かれるLoveかもしれませんが、神のアガペは、自分の一人息子を、すべての罪人の贖いのために十字架につける愛であります。義に基づいた愛とも言えるかもしれません。
希望は確かに、永遠の命を頂き、主と共に住むことで、信仰とは、命の約束をされた主イエスを信頼して仰ぎ見ることに間違いはありません。しかし、主イエスが再臨して、実際に我々が主イエスを王として拝み、その僕として遣える時に、すでに希望は満たされ、信仰の元である主がおられるので、信仰も完成され、その時に最後まで残るのは、神の愛が満ち溢れる中にいる自分達と思うのです。 そこには父なる神と子なる神と聖霊の愛の輪の中に、私たちも入れてくださる。確かに神はアガペの愛であり柔らかなLoveではありません。主に在って
森さん、お久しぶりです。
返信削除いつも貴重なコメントをいただきありがとうございます。
さて、森兄の言われる…
「その時に最後まで残るのは、神の愛が満ち溢れる中にいる自分達と思うのです」
…との記述と、本投稿中の…
「そこ(天国)は、分け隔てなく、そして終わることのない、不偏無窮の愛でいっぱいなんだよ!」
…との記述では、両者の間に大きな隔たりはないように思います。
土のちりは、神の国では、ヒトがその肉を離れて初めて獲得できる "不偏無窮の愛" を、神と共に享受することができると考えています。
その愛がどのようなものであるかについては、イエスが山上の垂訓でその一端を遡及的に示唆しています。
「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と言うときの "新しく生まれる" ための必須条件を、山上の垂訓で具体的に示しているとも考えられ、それはまた、肉にあるままでは到達できないところの "不偏無窮の愛 (神の愛)" が、ヒトが "新しく生まれる" ことによって初めて獲得できるものであることを示していると考えます。更に言えば、そのことを明らかにすることが、肉にあるヒトには達成できない内容を含む山上の垂訓を垂れたもうた目的だと考えます。
したがって、世にあって既に神の愛を体得できているという前提で、それが神の国においても最後まで残って享受し続けられる、との考えは残念ながら私には受け入れる余地がありません。
更に思うところは多いのですが、長くなるのでここでは触れず、別途記事を書き後日投稿することとします。