そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。 - マルコ11:14 口語訳聖書
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「その木に何かありはしないかと近寄られた…」とあるように、イエスはその木をいちじくの木であるとは認識していませんでした。
つまりその時、空腹であったイエスは、その木がいちじくであって今はそれが実る季節ではないということに思いが至らず、何か他の果実を期待していたのでしょう。
いちじくの木がその時イエスに実を提供できなかったことは、当然、いちじくの責任ではないのですが…
なぜ「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」なのでしょうか?
翌朝、そのいちじくの木が枯れているのを見たペテロがイエスにそれを促すと、イエスは言います。
「… 心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう」
- マルコ11:23 口語訳聖書
目の前のいちじくの木も、前日イエスが空腹のあまりそれをいちじくの木と知らずに言ったことが、そのとおりになりました。
さらに続きます。
「… だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう」
- マルコ11:25 口語訳聖書
つまりここでは、イエスがいちじくの木をそうとは知らず枯らしてしまった逸話を、不寛容の戒めとして記しています。
このように、あなたが祈ることはなんでもそうなるが、たとえそれが事実の裏付けのない祈りであっても、それを信じて疑わずに祈るとそのとおりになることを身をもって教えているといえます。
これと同じエピソードがマタイによる福音書にも載っていますが、そちらは内容が簡略化されていて、マルコに見る不寛容の戒めを示唆する記述はなく、意味不明で、祈りの力の誇示としか解せないような内容になっています。
改訂:2023.06.07 末梢表現変更
2023.10.27 リードに出典記載
2023.10.27 リードに出典記載
いちじくで思い出しますのは、天草で随分とお世話になった農家の友人は、いちじくと晩柑を栽培されていました。何やらいちじくの苗木はポルトガルだったか、その昔に宣教師によって日本に持ち込まれ、天草地方ではかなりたくさんのいちじく農園があると聞きました。一番驚いたのは、生産農家でしか食べられない大きないちじくを頂いた時、その大きさがりんごサイズ、洋梨サイズあるんです。これは一部のいちじくを収穫せずに木に残したまま、翌年までそのままにすると、特大の大きさになったいちじくだったのですね。 彼にいちじくの事をもう一度尋ねて、確認してみますが、冬場に葉を落としたいちじくがまた春先に葉をつける時に、まず小さな実を結び、それからかなり後の時期になって、徐々に実が大きくなるのがいちじくだと理解しています。
返信削除貴兄が投げかけている、主イエスといちじくの話は、確かに自分もわかりずらい話が、何か突如、挿入されているような印象を受けるのですが、まずいちじくが何を象徴するのか、聖書の別の箇所を調べてみましょう。
列王記上4章25節「ソロモンの一生の間、ユダとイスラエルはダンからべエルシバに至るまで、安らかにおのおのの自分たちのぶどうの木の下と、いちじくの木の下に住んだ。」
他にもエレミア書、稚歌などにもいちじくが出てきますが、例えば主イエスがぶどうの木に繋がる話をされる時には、主イエスを信じる者たちが神から聖別され、祝福を受けるユダヤ民族に繋がって、神の子として祝福を受けるというように、ぶどうの木も、いちじくの木もユダヤ民族(イスラエル12部族)を表すものと聖書の別の箇所から推測する事は間違っていないと思います。
ヨエル書1章12節「ぶどうの木は枯れ、いちじくの木はしおれ、ざくろ、やし、りんご、野の全ての木はしぼんだ。それゆえ楽しみは人の子らからかれうせた。」ともあります。主イエスは預言を成就されるために、さまざまな行動をされた事は事実です。
ですからいちじくがユダヤ民族とすると、救い主イエスを受け入れなかったために、枯れてしまう運命にある事を予表しているとも理解できるのではないでしょうか。
深沢兄、聖書は大変奥深いので、いくら読んでも飽きない不思議な本ですね。 でも自分もいちじくの木の事は引っかかっていて、完全に理解しているとは思いません。
アローハ ハワイの森より
森 兄
削除コメント頂きましてありがとうございます。
聖書でも馴染みの深いいちじくが、その昔宣教師の方々によって日本に持ち込まれて根付いていた… いわばキリスト教伝来のお供だったとは、 興味深いですね。
「一番驚いたのは、生産農家でしか食べられない大きないちじくを頂いた時、その大きさがりんごサイズ、洋梨サイズあるんです。これは一部のいちじくを収穫せずに木に残したまま、翌年までそのままにすると、特大の大きさになったいちじくだったのですね。」
→ なるほどそういうこともあるんですね。
記事を書く前に調べて判ったのですが、いちじくは年に2回(6-9月)結実するそうですね。初めの実は放っておくと落ちてしまい、次の実は成長して色や大きさが程よいと思われてもなお成長するので摘果の時期の判断が難しいとも書かれていました。それをそのまま枝に残すと翌年肥大化した実になるということかも知れせんね。
あの実の中の果肉のようなものは、じつはその中にたくさんの花が入っている花嚢というのだそうで、中の花にも雄花と雌花があって、昆虫のイチジクコバチが中に潜り込んで受粉に介在するとか、かなり奇想天外な植物であるようです。
「ですからいちじくがユダヤ民族とすると、救い主イエスを受け入れなかったために、枯れてしまう運命にある事を予表しているとも理解できる」
→ マルコとマタイどちらにも適用可能な広範な見方ではありますね…
宣教師というお立場上、この記事のような素人の異言すなわち教会の教義から逸脱する内容に同調することはできないものとお察しします。
とはいえ、どのような苦言も、また誤りのご指摘も頂いておりませんので、この記事の推稿はこれにて了といたします。
ありがとうございます。