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Cogito


東明の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
はたなびく小旗の如く涕かんかな

或はまた別れの言葉の, こだまし, 雲に入り, 野末にひびき
海の上の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……

改訂情報:


- The Alexander Brothers : Nobody's Child リードに加筆, 一部記述変更

- ホセ・カレーラス「光さす窓辺」 対訳付き原語歌詞掲載

2023-02-15

ある宣教師へのメール III


根っからのペシミストの私は、創世記の天地創造に伴うヒトとこの世に対する記述に多くの違和感を覚えます。のみならず旧約聖書全体が、そのごく一部イザヤの究極的な預言の他は無くもがな、ワーストはサムエル記。そんな私が、コルベ神父の自死の選択に躓きます。


最近、寒波が緩んで春が近いと思いきや、昨日は終日雪が降りました。それも今日の晴天でほぼ溶けて無くなり春も近いとの思いを新たにしています。
暖かなハワイでは、みなさまいかがお過ごしでしょうか?

先のメールを読み返しては考えを進めていましたが、そこに新しい内容ががほとんど無いことに気がつきました。
森羅万象に神が一切の関わりをもたないことはずっと前に承知していましたし、創世記も五書も歴史書もイザヤが既に切り捨てています。それをイエスが現れて成就しています。

それなのに、私がひどく釈然としない、あるいは看過できなかったのは何だったのでしょうか……

振り返ってみると、疑問はコルベ氏が何をどう考えて代替死を決断したのだろうか、もっと言えば、その時の彼の信仰がどうであったのか、突き詰めると、その時の彼の祈りがどうであったかと言うことに尽きるようです。

若くして神父になったコルベ氏が極限の決断に至る前に、深くまた激しく祈ったであろうと推察します。
イエスの「互いに愛し合いなさい」の教えに従って生き抜き、獄中の友をも愛しその餓死刑に定められた患難が取り除かれるよう激しく祈ったに違いない。
そうであっても、結局、自らの命を差し出す以外の答えは見つからなかったのでしょう。

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以下自問です:

Q1:「あなたがたも互に愛し合いなさい」との戒めをおそらく47年の生涯を通して守ったであろうコルベ氏が、結局、自らの命を差し出さざるを得なくなる窮地に追い込まれたのはなぜか?

Q2: コルベ氏が主の “愛の戒め” を厳しく守らない生き方をしていたら、彼が自らの命を差し出す事態にはならなかったのではないか?

Q3: 「あなたがたも互に愛し合いなさい」の戒めを守る人はこうして死んでいき、それを守らない人は生きながらえるのが現実のようにみえるが、そうであれば、この主の戒めはいったい何をもたらすのか?

Q4: 愛の戒めの実践が、この世における実りある “生(命)” をもたらさないとするなら、それは何のためか…… 死後の裁き(と言われているもの)への免罪符、永遠の命への切符(条件)なのか?

Q5: 主が、私があなたを造り私があなたを選んだ、と言われる私の命、私がそれを自ら断つことはあり得べからざることだと思うが、違がうか?

Q6: コルベ氏が神から戴いた命を差し出すことすなわち自死を自ら選んだということは、神と人との間の愛に反する、すなわち反逆であると考えるが、そうではないのか?

Q7: 祈りとは、その内容が関与する現実世界の森羅万象と人のなす業に直接変化を及ぼすことは一切ないことを承知の上で、主に依り頼むお願いであり訴えであって、それは祈る者とそれを聞く者の心に平安をもたらす精神安定剤として働くと考えられるが、そうであるのか?

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コルベ氏は、祈りによって心に平安を得て、自らの良心に従い、静かに餓死刑に向かい、祈りながら苦しみを超えて、逝った、と考えられます。
そう考えると、ここでは、良心が主であり、祈りあるいは信仰あるいは神が従です。それが彼の死を反逆と考えるゆえんです。

それを直ちに反逆と結論づけることはできません。しかし、生きながらえることの一切を神に委ねようとする時、私にはとても辛く響きます。
なぜなら、それは「互いに愛しあいなさい」と言われる『愛』の力が悪の力に及ばないことの確認を求めているように思えるからです。つまり、ここでは神が悪を制御しないことが自死というあり得べからざる行為によって証しされています。
それが自死であるところに殉教との違いがあります。もっともカソリックでもヨハネ15:13を引いてコルベ氏の死を "愛の殉教” などと呼んでいるようですが…

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これらの自問自答を経て、今、一つの公理に到達しました。
ここではあえて、世俗の “精神安定剤” の用語を使って信仰の領域の事柄の説明を試みています。

「祈りとは、祈る人とそれを共有する人々の内に於いて、それぞれの信仰の深さに応じて精神安定剤として機能し、“諦め” と “赦し” と “希望” をもたらすものである」

いま、愛の戒めがもたらすものはいったい何か、自死が反逆であるか否か、永遠の命は果たしてこの世の肉にある命よりどれほど重いのか…… 等々全く解りません。これらに関してはもう聖書は読みたくないとも思います。

そして今、それらが解らないので、なおさらただただ祈ることしかできません。
独りよがりの勝手な祈りですね…… お笑いください、とりあえずそれで結構とも思っています。

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それでは是非、最近撮った一枚の写真をご覧いただきたく思います。


これ、私の生涯の最高傑作と思っています。
撮ろうと思って撮った写真ではなくて、ベランダの鉢の残りの土に勝手に生えてきた草の種類を見極める目的で撮った写真です。
撮れた写真を眺めていいて…… おおっ、美しい!…… これぞ野の花! 栄華を極めたソロモンでさえ……

若い頃には仕事で撮った写真が New York Times 紙の一面に掲載されたこともありますが、それより何よりこの写真が撮れたことがうれしいですね。

これは、雑草と言われてしまう草、チチコグサモドキ (北アメリカ原産で英名 “Pennsylvania everlasting”) の穂あるいは花で、穂 (花) のスパンは僅か5mmほど!

「栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか」

- マタイ6:29-30 部分 日本聖書協会 口語訳聖書

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