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Cogito


東明の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
はたなびく小旗の如く涕かんかな

或はまた別れの言葉の, こだまし, 雲に入り, 野末にひびき
海の上の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……

改訂情報:


- 二人乗り自転車の歌 重要: たくさん分かち合う→運命を共有する (韻に託けて文法無視で意訳した前訳を改訂)

- ホセ・カレーラス「光さす窓辺」 対訳付き原語歌詞追記

2023-02-07

ある宣教師へのメール II


数年前に知り合い、今もときどきメールでお教えいただいているM宣教師。昨年日本での任務を終え今はハワイに帰られています。
しかしメールとは便利なもので、私がときどき暴言を書き送るのにも拘わらず近くにいた頃と変わることなく今もお教えいただいています。感謝です。

(前半引用略)

> 昨日はハワイの公園伝道に参加しました。
 注) 公園伝道:公園で生活するホームレスの人々への伝道

→ やはりハワイは暖かいんですね、みなさんこちらの夏の格好ですね。
凍え死にしないなら、僕もハワイに行ってホームレスになりたくなりました。

∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥

この頃、イザヤの預言とキリストの降誕と十字架上の死が、私の信仰のほとんど全てのように思えてなりません。
イエスの公生涯中の自身による教えがその三つを繋いでいます。
それらを繋いでいるのは、ロバに乗ったりしたからではなく、イエスの教えとその生き様にあります。
核心は神自身の受肉とその死。そこに無限と有限の間の全宇宙があります。

反面、私にとってイエスの復活といわゆる終末論とはほとんど意味を持ち得ません。

∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥

先のメールでアウシュビッツのコルベ神父について、ペンの勢いで「それは考えられうる最高の、神への反逆です」と書きました。
今、その言葉が諸刄の剣で自分に突き刺さって苦しんでいます。
「神への反逆」… カソリックが彼を列聖しようが遠藤周作氏が彼について何を書こうが、この句があまりにもそのものズバリに思えて自分で恐ろしくなっています。

伝えられているところの、コルベ神父の生い立ちや、修道院や宣教の活動、そして聖母マリア崇敬など、いずれも私には責めるところがありません。眩しいほどにイエスへの信仰を具現しているとみえます。

そのコルベ神父が… 餓死刑に処せられることになり泣き叫ぶ収容者の身代わりになって死ぬことを自ら選んだ……

そこには神はいない、信仰もない、ただ素晴らしい人間がひとりいる。私にはそう映ります。
先のメールではひらめいたように筆が進んで「最高の、神への叛逆」と書いて大いに納得していましたが、今それが自分に返ってきて重く深く突き刺さっています。

人間コルベにとって、バチカンが何と言おうと、人の命が関わる困窮の場において神は何もしてくれず、そこにおいてなお平然としていることは自らの人間性を否定すること以外ではなかった。
つまりここでは神と人が対立している。
コルベは神にではなく自らの良心に従った。
コルベ自身は恐らくそれが神の愛に叶う行為と信じて行ったのであろう、とは思います。

アウシュビッツのコルベ神父の行為は神の愛と技について語るべきものではなく、それとは反対の人間讃歌そのものです。

しかし結局、神が、信仰が、人間の良心に負ける/劣るのであれば、それは飾りか無策への慰めでしかない。
このことが今私を苦しめています。
先に神への反逆と書いてから半月ほど経ちます。その間クリスマスに神の受肉の意味を思ったほかには、ほぼ棄教につながるようなことにばかり考えが及びます。

宇宙の森羅万象に神が直接手を下すことはない。
津波に何万人が呑み込まれようと、ノア一家以外の全てを溺死/犬死させた神が意に介するはずがない。
ヒットラーが何であれ、ウクライナがどうであれ、ダビデの殺戮に手を貸す神には自らがかけた呪いの結果としか映らない。

こうしてみると、信仰あるいは神は、人間の良心に対して分が悪い。
そういうと、キリスト教書物は必ず、人間の「傲慢」という決まり文句を持ち出します。

13歳から神学校で学び神父となって働いたゴルベ神父が47歳で出した答え、はたしてそれは “傲慢” の故だったのだろうか?
私には解らない。

なお、

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない-ヨハネ15:13 口語訳

この聖句を引いてコルベ神父の身代わりの行為を讃える人がいますが、この節はイエス自身の十字架の死への比喩として人間的な愛が語られているというコンテキストを無視した稚拙あるいは卑劣な誤魔化しの論議です。

この、神と人間の良心との問題は、私の中では自分自身に関わる痛み苦しみと、他者に関わるそれとの違いが根底にあります。
例えば命を奪われると知る時、自分の命なら生きるに時があり死ぬに時があると諦めて全てを神に委ねるようなこともできます。
でもそれが他者の命だったら、その人の置かれた状況を思い胸が張り裂けそうになるかも知れません。コルベ神父のケースもそうですね。
そこでは “良心” が頭をもたげます。
それを傲慢と言うなら、どうすればいい……
良心は殺せ、と言いますか?

つまり、突き詰めると、信仰と良心は両立しなくなるのでしょうか?

長くなって申し訳ありません。


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(以下引用略)

2023年1月4日送信
注)読みやすさのため原文にいくつかの句読点と助詞、レイアウトの僅かな調整、及び漢字誤変換の訂正を加えて引用


改訂:2023.02.13 終盤の聖句引用直前の「13歳から神学校で学び…」で始まる節が無関係な文字列に置き換わっていたため修復


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