Wikipedia の「石川啄木」と題する記事 においては、石川啄木氏に対する誹謗中傷を客観的事実に反する記述をもってその内容を裏打ちしており極めて悪質です。
初めに、Wikipedia の「石川啄木」と題する記事の「東京での作家活動と生活」の項から、その一部を引用します。
(以下引用)
1909年(明治42年)1月1日、当用日記に「今日から24歳(数え年)」と記す。『スバル』創刊、発行名義人になる。就職活動が実り、3月1日に『東京朝日新聞』の校正係となる。4月3日よりローマ字で日記を記すようになる。7日より新しいノートで「ローマ字日記」を著す。ローマ字の記述全文が翻字され公刊されたのは、啄木死後70年近くを経た1970年代の全集出版時からである。それまで一部が伏せられていたのは、浅草に通い娼妓と遊んだ件が赤裸々に描写されていたためである。
「彼の借金のほとんどはこうした遊興に費やされ、それが為の貧困だった」と、金田一春彦は語っている(ちなみに京助は啄木のために家財を売って用立てていたため、当時の春彦はその様子をみて幼心に「石川啄木は石川五右衛門の子孫ではないか」と疑ったことがあったという)
(引用終り)「彼の借金のほとんどはこうした遊興に費やされ、それが為の貧困だった」と、金田一春彦は語っている(ちなみに京助は啄木のために家財を売って用立てていたため、当時の春彦はその様子をみて幼心に「石川啄木は石川五右衛門の子孫ではないか」と疑ったことがあったという)
啄木(右)と親友の金田一京助(左)
1908年(明治41年)10月4日
『明星』終刊の際の写真(部分) -wikipedia
1908年(明治41年)10月4日
『明星』終刊の際の写真(部分) -wikipedia
私は、啄木と金田一京助氏の友情と経済的援助の関係については他で得た予備知識があったので、上記引用の記述を初めて読んだとき、京助氏の息子である春彦氏がそう言われるのなら、私の予備知識の内容も確かだ・・・と大いに納得した。
そして、それに基づいて当ブログに「許せぬ、石川啄木」と題する記事 を書いた。
しかしその後、啄木を誹謗する浅薄な記述がネット上に蔓延しているのに気が付いてわが身を振り返り、自分のブログ記事の中身を改めて検証した。
そして明らかになった事実。
石川 啄木:1912年04月13日 没(wikipedia, ブリタニカ国際大百科事典より)
金田一 春彦:1913年04月03日 生(wikipedia, コトバンクより)
上記引用の文末には「・・・当時の春彦はその様子を見て幼心に・・・」云々と書かれているが、幼心にその様子を見るどころか、春彦氏が生まれたのは啄木が亡くなってから一年も経ってからである。
春彦氏は、啄木のどのような様子も “見る” ことはできなかったというのが客観的事実。
文脈からから見て、これが間違いだとは考え難い。
講釈師、見てきたような嘘を言い・・・という言葉を思い出すほど、これは真っ赤な嘘だ、と私は思う。
誰が嘘をついているのか?
春彦氏の文言を伝聞の形で記す記者が嘘をついているのか?
それとも、そういう嘘を本当に春彦氏が語ったのか?
真偽は何であれ、そのような嘘でも、堂々ともっともらしく掲載されるのが Wikipedia。
Wikipedia という組織(普通に考えれば掲載責任者の立場にあると思われる)は、記事の中身を検証しそれが仮に中傷誹謗の嘘であったとしても訂正したり削除したりなどはしないし、"誰か" がその記事を訂正 しない限り、そのまま掲載され続ける。それが、Wikipedia のみならず Wiki ○○○というネット上のサイトの本質であるようだ。
注1)2022年11月現在、Wikipedia の「石川啄木」の項はほぼ全面的に書き換えられています
注2)当ブログ記事「許せぬ、石川啄木」は投稿から1ヵ月ほど後に削除されています
注3)本記事「Wikipedia の嘘」を2016年3月に投稿後、ja.wikipedia.org の「石川啄木」と題する記事の編集にログインし、事実誤認を指摘した上当該不正部分の削除を提案しました
改訂:2022.11.03 注1~3) を追記, 文面再構成, 改題, 他末梢表現変更
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