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Cogito


東明の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
はたなびく小旗の如く涕かんかな

或はまた別れの言葉の, こだまし, 雲に入り, 野末にひびき
海の上の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……

改訂情報:


- The Alexander Brothers : Nobody's Child リードに加筆, 一部記述変更

- ホセ・カレーラス「光さす窓辺」 対訳付き原語歌詞掲載

2020-01-03

新しい年 : 藤圭子さん"ゴンドラの歌"


迎春、おめでとうございます。

正月になるとなぜ「おめでとう」というのか、数年前、長塚節氏の『土』を読んで、遅きに失した感もありますが、その理由が心底解りました。そして、新たに迎えさせて頂いたこの一年、さて……



昨年五月、引越し最中に脊椎を骨折したのが悪循環の始まりで、以来半年を超えて心身共に絶不調に陥ってしまいました。
そもそも、生きる気力、生き続けたいという意志が希薄なこと、それが諸悪の根源でした。しかしながら、そんなお粗末な理由は口にも文章にも出したくなく、数日前の記事でつい筆を滑らせてしまった例が一つあるのみです。
この冬の寒さが一段と厳しくなってからは、もう来年の冬の寒さの中にはこの身を置きたくない、美しい秋を堪能したら、もうその先はいないほうがいい…… そう願ってはみてもそれがかなう術もないのですが、それが救いはかない希望でした。何ともお粗末な現実逃避でしかないのですが、そうであると判っていながらそれからが抜けられない、人間は自らを救うことはできない、それが現実。

数日前、新しい年を目の前にして、このどうしようもない自らの精神状態をおもんばかっているときに、次の言葉を耳にしました。

マルチン・ルターは、「たとえ明日世界の終わりが来るとしても、私は今日リンゴの木を植える」と言ったといわれています。(正確には、出典は良くわからないそうです)。

この言葉にはいたく考えさせられました。いま、新しいことはもとより、少しでも継続する時間を要することは、それが何であれほとんど無意識に遠ざけてしまっているので。
そして、いわゆる作家や思想家が高齢になってからどのような言葉を残しているか気になって探してみました。

宇野千代さん、作家としては極めて珍しい超楽天的な性格であるようで、それが彼女の作品タイトルにも窺われます。極め付けは、98歳のときに出版されたエッセイ集の題名が『私何だか死なないような気がするんですよ』。これには考えさせられたというより、仰天し、そして "完敗" だと思いました。ということは、これ見習わなくては……?

十代の中頃に乱読した本の中に、宇野千代さんの「色ざんげ」という小説がありました。完読はしましたが内容はよく解らなかったのだと思いますしほとんど覚えてません。しかし、以来なぜか宇野千代という名前が記憶に強く残っています。後で知ったのですが、この小説は東郷青児と同棲するようになった著者が、かって東郷青児が愛人と心中を図るに至った詳細な経緯を本人から直接聞き取って作品に仕上げたといわれています。

のちに東郷は「この作品は最後の一行まで僕の話したことだ」と語っている。
  - ja.wikipedia.org

まあ、東郷青児氏の作品への興味などまったくないのですが、不倫が心中にまで至る、そこまで自己を貫くのであれば、それはそれで取り敢えずよしとしましょう。私がかつて切り捨てたフランス語の翻訳者で親の脛かじりの自称詩人の某よりはよほどまし、と思いたいところですが…… 心中そのものはともかく、その前後の実生活上の目まぐるしい女性関係 (- ja.wikipedia.org) があまりにも常軌を逸していて、そこまでの支離滅裂には滅多にお目にかかれないほどの、色ざんげならぬ "色狂い"。詳細は省きます。

宇野千代さんは芥川龍之介作の短編「ネギ」のモデルといわれているのを思い出し、読んでみました。上京して本郷の洋食屋で女給をしていた十代の宇野千代さんが、文士や学生たちの間で人気者であったようすが、そしてなによりも芥川さん自身が惚れ込んでいる様子がよく判ります。そして、そのモデルの魅力に託した小説のテーマがラストで鮮烈に浮き上がってくる佳作。
その「葱」で、宇野千代さんをモデルとする主人公の部屋にあったとされる本のひとつに「松井須磨子の一生」が挙げられていました。それが気になって、それも少し調べてみました。

すると、明治から大正にかけて活躍した女優松井須磨子さん、彼女も不倫の愛人島村抱月の急死二か月後に後追い自殺を遂げていました。
宇野千代さんの表面的な一面をみて超楽天的な性格と思ったのはどうやら的を射ていないようで、いわゆる世間の常識や良識に逆らっても、命を賭してまでも愛を貫くという、厳しい生き様を指向しているかのように見受けます。

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1915年(大正4年)に中山晋平作曲、吉井勇作詞で、芸術座の舞台劇「その前夜」の劇中歌とし発表され、舞台で松井須磨子さんが歌った「ゴンドラの唄」。
この歌、ずいぶんたくさんの歌手が歌っていますが、聞いてみるとほとんどの歌手が "歌をうまく歌う" ことにのみ腐心しているように聞こえます。それは、ある意味で当たり前と言えなくもないのですが、その歌がどれも実に面白くないのです。総じて、ドヤ顔ならぬドヤ歌唱。
ろくな歌唱がないのだから、もうこの歌をブログに埋め込むのは諦めなければ、と思い始めたところに藤圭子さんの歌唱が見つかりました。聴いてみるまでもなくこれで決まりと思い、そしてそれは図星でした。
藤圭子さん、うまい歌い方あるいは人に褒められるような歌い方には見向きすることなく、彼女独特の節回しで、歌詞に込められている想いを自ら発する歌声に叩き込んでいるかのように聴こえます。


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ゴンドラの唄


いのち短し 恋せよ乙女
あかき唇 あせぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを

いのち短し 恋せよ乙女
いざ手をとりて かの舟に
いざ燃ゆる頬を 君が頬に
ここには誰れも 来ぬものを

いのち短し 恋せよ乙女
波にただよい 波のよに
君が柔わ手を 我が肩に
ここには人目も 無いものを

いのち短し 恋せよ乙女
黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのお 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを


吉井勇 1915


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 Brava !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

3'56"
"ゴンドラの唄"
歌: 藤 圭子
作詞:吉井勇
作曲:中山晋平



改訂:2020.01.07 タイトル変更: 一部文字削除 Prec-4 追記
   2020.01.21 末梢表現変更
   2020.02.16 タイトル変更: Prec-4削除
   2020.07.06 末梢レイアウト変更
   2020.12.24 字句修正


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